己を尽くして人を咎めず 我が誠の足らざるをたずぬべし ー 西郷隆盛 ー

  

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

 

人を相手にせず

 天を相手にせよ

 天を相手にして

 己を尽くして人を咎めず

 我が誠の足らざるを常にたずぬるべし

 

西郷隆盛の言葉です。

 

どうしてこうも己の利益の為ならば、

平気で嘘をつけるような人間が増えたか。

僕ら庶民が苦しい生活状況の中で、

小さな嘘をつくのは仕方ないとしても、

公人である人間が、否、むしろ公人に、多くの人が苦しんでしまうような大きな嘘をつける、

下劣な人間が多いのは何故でしょうか。

 

そのことについて考える時、

僕は、

人が神様のことを想わなくなったことに原因があるように思えてならないのです。

 

子供の頃、僕の母親は僕が隠れて悪いことをしようものなら、

「お天道様が見てるよ」

と口にしたものでした。

 

この言葉のお蔭で昔の人たちは、

大きな視点から自分を客観視することができていたのだと僕は思っています。

 

アメリカの著名な文化人類学者ルース・ベネディクトは、

その著書『菊と刀』にて日本の文化を「恥の文化」と説きましたが、

その恥とは、

世間体を重んじる、世間から自分を見る視点であって、

西郷さんの言われた、

「人を相手にせず」の言葉の、

人を相手にした時の小さな視点です。

 

本来の日本文化は、

西郷さんの言われた「天を相手に」した「内省の文化」であって、

ルース・ベネディクトの言う「人を相手に」した「恥の文化」ではありません。

 

キリスト教にて十字を切る時は、

まず縦に切り(内省の文化)、次に横に切ります(和の文化)。

天よりの光を大地に広げていく。縦から横へ。

天(縦)を相手にせず、人(横)を相手に、横に広げていこうとするから、

横から横へとなり、

人間が薄っぺらくなる。

ヽ( ´ー`)ノ

 

天を相手にした内省の文化も和の文化も、

日本文化の根幹であるべきものなのに、

わざわざ我が国独自の文化を欧米と比し、その弊害を言われて久しいのは、

日本人がお天道様を忘れてしまったからだと思うのです。

 

現代社会において同調圧力というものがまかり通るのも、

多くの人々が「天を相手に」せず、「人を相手に」している証拠ではないでしょうか。

 

天を相手にして

 己を尽くして人を咎めず

 我が誠の足らざるを常にたずぬるべし

 

ひとつの組織をより良い方向へ導くため、

人を変えようとするよりも、

自分が変わっていく方が容易いことは、皆さんよくご存じだと思います。

 

常に自分を磨く努力をし、それでも周りがついてきてくれないなら、

それは自分の誠が足りなかったからだと思え、と西郷さんは言います。

 

江戸期の僧侶、良寛さんがその場にいるだけで、

良寛さんはひとり部屋の隅で別のことをしていたとしても、

その場の空気はとても和んだといいます。

 

西郷さんを暗殺しようと、西郷さんに面会を求めた人見某。

西郷さんのあまりの胆力に殺そうとした気持ちも失せ、

むしろ周りの人間に対し、西郷さんを褒めたたえました。

 

合気道の中興の祖とでもいうべき塩田剛三は、

「合気道で一番強い技は何ですか?」

と聞かれ、

「自分を殺しに来た相手と友達になること」

と答えたそうです。

 

天を相手にし、誠を尽くしていれば、

何をせずとも、そこに存在するだけで、その場の空気を変え、

自分を殺しにきた人間とも仲良くなれるのです。

 

ひとの過ちをも己の過ちとして受け入れる時、

度量というもの、心の器は大きく育ちます。

なかなかでき難いですが。。。

でも難しいことだからこそ、西郷さんや良寛さんのような稀有な大偉人になれるのだと思います。

 

人々を咎めず、己の誠を尽くすのは、強く生まれた者の責務です。

(煉獄さんのお母さん風 (*´ -`) )

出典:鬼滅の刃 第8巻