沈黙

僕の原体験

 

この記事はブログを立ち上げてから、二番目に書いています。僕の思考、言動の1番根底に存在する、ある体験をとりあえず書いておきたいと思います。その方がなぜ僕という人間が、これからブログに書いていくような変わった物の考え方をするのか、理解してもらいやすいと思うからです。

小説家、遠藤周作さんの作品に『沈黙』があります。このタイトルはそこから頂きました。『沈黙』は江戸時代、島原の乱が鎮圧され間もない頃、キリシタンに加えられる残虐な弾圧に対し、神様が存在するというのなら何故救いの手を差し伸べないのか、という問いをポルトガル人司祭の目を通して描かれた作品です。

果たして神様というものは本当に存在するのでしょうか。戦争で、自然災害で家族を亡くし、泣き叫ぶ人達の映像を見るたびに思います。この世には、家族が何の落ち度もなく交通事故の被害者として亡くなっても、権力によって加害者側が裁かれないという理不尽も存在します。神様が本当に存在するなら何故こういう理不尽を放っておくのでしょう。

みなさんはどう思われますか?

僕は子供のころ、お寺のすぐ近くで育ったので、僕にとっての神様のイメージは仏像でした。神様に何かお願いをする時は、目を閉じて昔話に出てくるような仏像を思い浮かべ、ひたすらお願いしてたのを思い出します。

例えば、商店街のくじ引きで一等を当てたい時(笑)これがけっこう当ったので、僕の親は僕のくじ運で家電をそろえたと、よく口にしてました。

あと、ひとりで留守番をしてる時に救急車のサイレンの音が聞こえてくると、家族が事故したのでは、死んでしまったのではと、不安で不安でたまらず、ひたすら神様に家族の無事をお願いしてたのを思い出します。「ボクが早く死ぬことになってもいいから家族を助けてください」そんなお願いのしかたでした。何かお願いをする時は何らかの代償を差し出さなければならないと、子供ながらに考えていたのでしょうか (*´ -`)

まぁ、子供にとっての神様ってそんなものですよね ヽ( ´ー`)ノ

 

悩まされた皮膚病

 

そんな僕が18歳を過ぎ東京で暮らし始めて間もない頃、ひどい皮膚病に悩まされました。 皮膚科での診断はアトピーではなく、病名は忘れてしまいましたが、珍しい病気と言われたのだけは覚えています。ステロイド薬を処方され塗るのですが、いっこうに治りませんでした。。。

(ここから次の見出しまではグロテスクな内容が続きますので、そういうのが苦手な方は読み飛ばしてください (*´ -`))

僕の患った皮膚病はとにかくかゆみが凄まじく、 患部はゴム状で常に乾かず膿があり、その上にかさぶたができている状態なので触るとヌルっとかさぶたが動く、その気持ち悪さ。。。 とりあえず外出中は我慢できるのですが、家にいる時は耐え切れないことが多く、一旦掻き始めてしまうとその手が止まらない。。。かなり力を入れて掻いてもゴム状の患部は肉がえぐれることはないので、ほとんど痛みもなく、掻いている時の気持ちよさだけがあり、ひたすら掻き続けます。患部のかさぶたが全て剥がれ落ち、膿と血の入り混じった臭いが漂うなか、満足いく迄です。こういう表現をしていいものかわからないですが、それは快楽にちかいものでした。身震いする程に気持ちいい。だからこそでしょうか。掻き終わった後に待っているのは大の男が泣いてしまう程のものすごい後悔です。

(またやってしまった。。。)

掻くほどに患部は拡がっていきます。しかし掻き始めると止まらない。何年も毎日毎日その繰り返しで、本当に気がふれてしまいそうでした。

その間、いろいろ勉強しました。ステロイドについて。東洋医学について。一切、掻かなければ治っていくのではと、手を縛って寝るようにもしてみましたが、縛る前にうっかり寝てしまったり、縛りが緩かったのか、寝てる間にほどいて意識のないまま、掻く。掻く。何度も掻かないことに挑戦しましたが、もって10日だったでしょうか。治りかけの時、患部には薄い皮膚が出来ているように見えるのですが、触るとその皮膚がヌルっとずり落ちる状態でなかなか治るように思えなかった。そのうちたまらず掻いてしまう。時には、掻くという行為は指の関節を常にまげて行うのだからと、指の関節が曲がらないように固定する器具を自作しましたが、それもうっかり装着忘れで寝てしまい、掻く。他に自作したのは、文具の下敷きで患部を覆えるようなもの。掻こうにも固くてかけないのですが、これも同様に装着忘れか、耐え切れず掻いてました。。。

というか何日我慢しても治るように思えませんでした。掻くことにひたすら耐え症状がおさまったようにみえる、紫色に変色したその薄い皮膚の下から、赤い小さな疱疹がぶつぶつと湧き出ます。治りかけ?のこの時が一番かゆみがすごかった。

発症して2、3年は服で隠せる部分だけに症状が出ていたので良かったのですが、次第に人の目についてしまう部分にも症状が出始めてしまい、それは恐怖でしかなかったです。

 

放たれた光

 

皮膚病に悩まされ、気がふれてしまいそうになる日々。掻く手を止めればいいのに気持ちよさに負けてしまう自分。患部が全身に拡がる恐怖。。。

普通の人が何気なくこすってしまう耳や瞼など、顔にも症状が出始めたある日。その日も寝てる間に掻き始め、掻いている自分に気がつきましたが、やはり手がとまりませんでした。僕はもう泣くしかなかった。泣いて泣いて、泣きながら掻き、掻きながら神様に怒りをぶつけました。

(神様がいるのなら、なんでこんな酷いことをする!もうじゅぶん僕は苦しんだ!治してくれたっていいじゃないか!)

怒りをぶつけた瞬間、頭の上から光が差し込んだのです。その光は、何故だか意味もわからず、ただただ有難かった。ただの光ですが、感動で嗚咽しました。優しさ。愛情。懐かしさ。どれもちがうような、どれもが合わさったような。言葉では表現できないです。

そうして数日もせず皮膚病が治りました。(他にも子供の頃の怪我がもとで、身体の一部に外科的手術を施さなければ絶対に治らない組織の変形がありましたが、そこも傷跡もなくキレイに治されて?いました。それは人目にもつくし長年の僕のコンプレックスだったのです。今思えばむしろこちらが治っていたことの方が神様の全能の力というものを思い知らされます)

 

ぶりかえす皮膚病

 

一旦は完治した皮膚病。肌もきれいに治っていました。

が、しばらくすると何故だか皮膚病がぶりかえしたのです。また少しずつ酷くなっていきました。一瞬、(神様、なんで?)と思いましたが、すぐに考え直しました。神様に怒りをぶつけ、一旦は治った。神様が治してくれた(こういう表現は嫌な方がおられるかもしれませんが僕はそう思いました)。けどぶり返したということは、神様ではなく自分のとっている行動にどこか問題があるのでは、そう考えを改め、生活態度を正し、がぶがぶ飲んでいたジュースを止め、特に食事に気を遣うことで、そのうちに皮膚病は本当に治ったのです。

現代医学的に正しい表現をするならば寛解でしょうか。今でも小さな症状は出ます。出ますがそのうち治ります。足の裏、土踏まずのあたりにがよく出ますが、僕の場合、足の裏に出る症状に限っては、歯の治療に使われるアマルガムが作用してる様です。特に歯磨きをしないでうっかり寝てしまった時に、発症しますので。口中を不衛生にすることでアマルガムが腸内に溶け出やすくなるからなのでは、と僕は考えています。

こういった宗教がかった話を毛嫌いする方もおられるかもしれません。僕も同じです。宗教的な話となるとそれまで興味深く聞いていた話も、たちまち胡散臭く感じてしまいます。その人が何か宗教に入っていれば勧誘されるのでは、と距離を置いてしまいます。申し訳ないですが。。。 ヽ( ´ー`)ノ

そういう気持ちがよくよく分かるので、僕はこの話を他人に話すことは一切無いです。このブログが匿名の場とはいえココに書けば、頭が変なヤツ、作り話、特別な人間だと思われたいのだろう、と批判されるのではという気持ちもあります。

何よりも、難病で苦しんでいる人の前で、自然災害で家族を亡くされた人の前で、この話をできるかというとそれは出来ないですし、語るべきではないと思います。 神様の話をするよりも、その場で一緒に悲しんで苦しんであげるべきですし、そうしてあげることくらいしか出来ない。安易に神様の話をすれば、

「じゃあなんでうちの子の病気を神様は治してくれないんだ」

「うちの親が不幸な死に方をしたのは神様から見放されていたというのか」

きっとそう思われるに違いないですし、思って欲しくない。だから僕はこういった話をすることに躊躇があります。

もしお子さんの、ご家族の病気で悩んでおられる方がいらっしゃれば、僕はけっして、あなた方の生活態度やものの考え方に問題があると言ってるのではないです。もし責められている感じに受け取られたなら、それは僕が悪いです。ごめんなさい。治療困難な難病、不治の病、そこにはおそらくあなた方ではなく、人間側の問題があります。儲け優先、巨大な利権。そこから引き起こされる公害や食べ物に使われる農薬の問題、そもそもの医療側、処方される薬の問題等。

他にも、僕が誤解して欲しくないのは僕が神様に選ばれた特別な人間だと言いたいわけではないということ。僕には未だドロドロとした感情があります。無口で、40代後半にもなって未だ自分に自信の持てないような人間です。けっして特別な人間なんかじゃない。光を浴びる体験については、ハンセン病患者の為に一生を捧げられ、美智子皇后の相談役を務められた神谷恵美子さん(Wikiに飛びます)も、光を浴びることで人生の暗闇から這い上がられたことを語っておられます。他にも著名でない人々の中にもたくさんおられるでしょう。それを語る場がない、あるいは語りたくないだけで。僕は特別なんかじゃない。

ひとつ、言えることは

僕が神様に怒りをぶつけたということは、自分がそれだけ神様の存在を信じていたということです。

神様の存在を信じてなければ僕の怒りは神様にではなく他の誰かに向かったはず。薬を処方してくれた医師や治せない自分に。怒りをぶつける、ということは、強烈に神様を信じた、とイコールだと思います。強烈に信じられたからこそ神様とつながった。つながった瞬間、光が差し込んだ。ただそれだけにすぎない。何も特別なことではないと僕は思います。

家族を不幸な亡くされ方をした人は、神様の話をされたところで、もう家族は帰ってはこないのだから、怒りや絶望しかないかもしれません。だけどその怒りを他の誰かではなく、真正面から神様にぶつけることで、神様だけでなく家族も一緒に見守ってくれていることを、いつの日かたしかめられるはず。

僕は思います。

強烈に神様を信じられたなら、たとえ前科があろうと、テロリストであろうと、あの光はさしこむ。

逆に言えば、神様と向き合うのではなく、周りのだれかを批判してる限りは神様は答えてはくれない。もしあなたが神様に答えを求めたいなら周りの人の目を気にするのではなく、神様と常に向き合うべきです。だれかを批判するくらいなら、今すぐにやめて神様を批判したほうがよい。

 

神様は何故沈黙するのか

 

小さな子供に何かを教えようとした時、ものすごく嫌がられたことはないでしょうか。子供が教えて、と言ってもいないのにこちらから先んじて教えようとすると子供はものすごく嫌がります。

自分で分かりたいからです。

分かった、を感じたいのです。

であるなら、子供が愛情を欲しがって泣いているのではなく、ただ困って泣いている時はあえて一切手を口を出さないのが、本当の愛情なのかもしれません。

僕は思います。だから神様は沈黙している、暖かく見守ってくれているんだと。僕にとっての神様のイメージは親のイメージです。親が子に安易に手をかせばそこに甘える。子供の成長はなくなる。自らなんとかしようとしたときにこそ発展はある。

神様は我が子の成長の為に、沈黙されているのではと。

たとえ、

神様が現れたところで黙っていれば誰もそれが神だとは思わない。

わしは神じゃ

そう言ったところで変人扱い。

神様が人類の為に、細々とした改革案を出したところで、神様の出される改革案は人類にとって強烈に痛いはず。巨大な利権を得ているものが中心となり、あれは神様なんかじゃない。ただの変人だと言って殺してしまうでしょう。そうであるなら神様は現れるべきではない。

一番僕たちが神様に期待するのは、何も言わずに奇跡だけ起こしてくれること。自然災害を起こる前に無くし、悪い人間を片っ端から消滅させてゆく。

でも、それって、先に先に手を出してしまう親と同じですよね。

けど僕は思います。神様が責任を取るべき自然災害はきっとなくしてくれている。起こる前になくしてくれているから気づかないだけ。

起っている災害はすべて人災であって、人類でどうにかするべき問題なんだと思います。悪い人間に勇気を出して悪だ!と言えないのは人間側の問題。

この世には様々な宗教が存在します。仏教、キリスト教、イスラム教など。自分にあった神様でいいと思います。不安でたまらない、怒りがおさまらない、ならば、それは神様に向き合う神様に会えるいいチャンスです。不安、怒り、悲しみ、その矛先を、他の誰かではなく、あなたにあった神様に向けること。

そうすることで神様はけっして沈黙などしてないことがあなたにも理解できるはずです。

今更、何かの宗教に入る必要はない。神様は入会も金銭も儀式も要求などしない。帽子をかぶったままお参りしたってバチなどあてない。それはこちらの気持ちの問題。

子供の頃。小さな身体の低い目線から見上げた、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん。

帽子をかぶったまま見上げたからといって、怒られたでしょうか。きっと優しく頭を撫でてくれたはず。

ましてや金銭、入会など親が要求するでしょうか ヽ( ´ー`)ノ

誰かの歌にあったっけ。『神様は何も禁止なんかしてない♪』それがホントの神様だと僕は思う。

最後に、ひとつ。僕が未だに気になってること。

あの頭上から差し込んだ光が、けっして蛍光灯の光ではなかったこと。お父さんは、ただただそれを願う! (*´ -`)