この世に100%真実の情報など存在しない。誰一人として真実のことなど知らない。情報とは信じるか信じないか、それだけである。
コロナ禍において、様々な情報が飛び交っています。
ワクチンは危険、といった情報もあれば、
ワクチンは安全で、このコロナ禍を早く終息させる為にも打つべき、
という情報。
緊急事態宣言の必要性を訴える情報。
緊急事態宣言など無意味だ、害悪でしかないとする情報。
はては、このコロナ騒ぎに関する陰謀論めいた情報まで。
どれを信じたらいいのか。
何を、
誰を信じたらいいのか。
みなさんは、情報を得る時、
何を基準にしてその情報の正否を判断していますか?
大手メディアの情報を、多くの人が利用する情報源だから、
たったそれだけの理由で鵜呑みにしてはいないでしょうか。
陰謀論めいた情報を、自分だけが知っている、
そんな自己満足だけの為に、偏った情報の集め方をしてはいないでしょうか。
権威ある人が、専門家が言っていたことだから、
それだけの理由で情報を信頼するなら、論文の不正捏造は過去に枚挙のいとまなく、
正しいとされていたことが、時が経てば間違いとなる、
(少し例えが違うかもですが、
昭和世代の部活時のうさぎ跳び、強くなるには喉が渇いても水を飲むな等々・・・)
なんてことはいくらでも存在しますし、そのことはみなさんもよくご存じですよね。
自分は偏ったモノの見方はしていない、
正しい情報を得、発している、そう言い切る自信があなたにはありますか?
『100%真実の情報など存在しない』と言い切れるのは何故か
真実は常に自分の中にしか存在しません。
例えば知人が突然、過去に人を殺めたことがあると告白したとする。
いくらリアリティをもって語られても、本人が嘘をついているかもしれない。
ただ単に嘘をつき、ドッキリさせたいだけなのか。
その人が突然それを告白した真意は何なのか。
それは本人にしか分からないことです。
たとえ「これがその証拠だ」とその事件をとりあげた新聞の記事を見せられても、
記事は作り物でドッキリなのだと、あなたは思いたいかもしれない。
はたまた、
いやいや冤罪だろ、と思いたいかもしれない。
私自身、似たような経験がありますが、警察が公表している事と真反対の情報を耳にすれば、
警察が嘘をつくわけがない(と思いたい)、
だとすれば本人が告白したその情報を信じるしかない、
が、結局真実はわからない、といったジレンマに陥りました。
100mlの水が入ったコップ(データ)を見て、
まだたっぷりと水が残っていると他者に伝えるのか(情報)、
もうこれだけしか残っていないと落胆し伝えるのかは、ひとそれぞれです。
言い換えれば、データを見て情報を発する時、
人は常に真反対の情報を発する可能性があるということ。
真実は常にそれを目にした(体験した)自分の中にだけあり、
情報として発する時は、
こうなりたい、ああしたい、あれが好き、これが嫌い、
と常日頃考えている自分の人格そのものが、いわゆるチェリーピッキングしているに過ぎない、
と気づくだけで社会にあふれる情報に惑わされることは無くなるのでは、
できるだけ少なくすることができるのでは、と私は思っています。
あなたはどう思いますか?
人は常に思いたいように思い、情報として口にしているだけ、だと思いませんか?
私の考える、データと情報の違い
メディアにあふれる情報は、人が事実を伝えるために、
数値や資料などのデータを言葉に変換したものですが、
そもそもデータと情報の違いとはなんでしょう。
これはあくまでも私の考える、データと情報の定義ですが、
データとは
データには、自分の脳内と、脳外の紙やコンピューター等の記憶媒体に蓄積されたものの、
2種類がある。
脳内には、
五感(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚)で得た、言葉に変換する以前の感覚、
例えば、口に入れたものが「辛い」、
その「辛い」という言葉に脳が変換する前の、下がヒリヒリと痛くなる感覚。
又、
思考すること、経験、体験することで、得られた、喜び、悲しみ、怒り、
といった言葉に変換する以前の感情も、データとして本能に蓄積されている。
(脳内で行うデータの情報化は、人の得る情報、発する情報が如何に不安定なものかを知る上で重要です)
脳外の記憶媒体(紙やコンピューター等)に存在するデータには、
名詞(名前、住所、品名、等)と数値を用いて、
定められたルールにより表(ひょう)に記帳、記録し、蓄積したものがある。
情報とは
脳内の自分の五感(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚)で得たデータや、
脳外の紙やコンピューターに蓄積されたデータを、
人に伝える為、言語化、映像化したものであり、
言語化、映像化された情報は、
脳内では、
理性とよばれる表面意識に整理し集積(情報化=記憶)され、
脳外の記憶媒体には、(紙やコンピューター等)、
書籍となったり、
文章化、映像化され、インターネット上に記録されていく。
簡単にまとめると、
データに意味づけをし、誰かに伝えようと言語化、映像化した時、情報となる、
以上が私の考えるデータと情報の定義で、
この定義を踏まえた上で、以下、この記事を論じていきたいと思います。
人は高性能なコンピューターであり、生まれた時からデータの収集と情報化を繰り返す
私はよく、人を高性能なコンピューターになぞらえ思考します。
DNAをプログラミング言語に、ウィルスをUSBメモリに見なし、考えてみたり。
科学者は、いや科学者だけでなく、この世の常識として、
人はDNAに支配されているとするのが定説ですが、私はそうは思いません。
DNAはプログラムである以上、プログラミングしているのは私であり、あなたであって、
人がDNAに支配されているなど有りえない。
ただそのプログラミング言語が難解であり、なかなか改変が難しいだけで、
人は本来、全てのものから自由である。
それが私の持論です。
いや、すみません。話が脱線しました。
脳内での情報化の話でしたね。
人は常に、感覚や感情として得たデータを、脳内で情報化しています。 その意味は、
狭義には、容量の限られた脳内のメモリに蓄積されていく、
漠然とし意味を持たないデータを情報化することで、
理性とよばれる表面意識へ移行、
更に、脳外の紙やネット上に移行させ、(クラウドへ移行)
脳内をリフレッシュ、クリーンアップしている。
広義には、脳内や脳外で得たデータを情報化することで、
自分という存在を、この世の中を、より良くしていくことが出来る、
現にそうして、私達人類の科学も文化も発展してきた、
私はそう考えています。
データを情報化する時、脳内では何が起こっているか。
私は、夢を見ている状態こそ、脳がデータを情報化しているその過程である、と思っています。
睡眠中にみる夢は、脳内のデータの情報化
著名な医学博士養老孟司さんが
寝ている人の首に氷をあててどのような夢を見ていたか問う、
という実験を紹介されていました。
(この情報のソースが思い出せず、見当たらず、申し訳ないです)
被験者は当然、首に氷を当てられた瞬間目覚めるのですが、
被験者の見ていた夢の内容は、
舞台は中世のヨーロッパで、自分は細々と日々の生業を営んでいたのだが
そこへいきなり数人の中世の鎧を着た兵士が怒鳴り込んできて、
自分をお城へ連れ去ってしまう。
連れ去られた先では、延々と無実の罪をならべたてられ、
とうとう死刑を宣告され、そのまま断頭台へ行き、
首を刎ねられた瞬間(首に冷たい刃が当たった瞬間)、
恐怖で目が覚め飛び起きる、といったものでした。
実験の本来の趣旨とは、もしかしたら違うかもしれませんが、
(この情報のソースが思い出せず、見当たらず、再度、申し訳ないです)
要は、
首に氷を当てられた、その一瞬で(感覚によるデータの取り込み)、
それだけ長いストーリーの夢を見ていた(情報化)ということ、
人間の脳は覚醒時も睡眠中も、常にこの情報化というデータ整理に努めている、
私はそう考えます。
上でも書きましたように、
容量の少ない脳内のメモリに蓄積されていく、
漠然とし意味を持たないデータを情報化する為、
覚醒時は、感覚により得たデータを情報化し、
睡眠時は、感情により得たデータを情報化し整理している、
その様を、夢でみているのではないでしょうか。
主に夢を見ているとされるレム睡眠時(身体が活動を停止し休息、脳の活動が活発となる)以外の、
ノンレム睡眠時(脳が活動を停止し休息、身体の活動がメインとなる)でも夢を見ていることは、
脳科学による研究でも明らかにされていて、
私はこのことにより、脳は覚醒時にも夢をみることでデータを情報化している証左である、
と思います。
赤ちゃんの頃はひたすらデータ収集のみ
私が考えるに、
未だ言葉を知らない赤ちゃんは、データ収集を行うのみであり、
情報化は行うことが出来ません。
早い赤ちゃんでは、9~10か月の頃には言葉を話せるようですが、
単語のみであり、データを情報化できる程の言語能力が無いために、
当然ながら、
脳で情報整理することも出来ない為、
その頃の記憶は残らないのではないか。
有り得ないことですが、
もし、赤ちゃんが生まれた時から言葉を話せるなら、
人はいつまでも生まれた時のことを覚えていられるのではないか。
(生まれたばかりの赤ちゃんの視力は完璧ではありませんが、
赤ちゃんが生まれた時から言葉を話せると仮定した場合、聴力などの他の感覚を連動させ記憶する)
私はそう思っています。
心地よい肌の温もり(触覚)
聞き覚えのある心音と声(聴覚)
1歳の誕生日を迎え、少しずつ見えるようになって
優しい微笑み(視覚)
おかあさん
ゴツゴツした肌触り(触覚)
聞き覚えはあるが、いつも遠くで聞こえていた野太い声(聴覚)
汗臭いニオイ(嗅覚)
私を見て、とても嬉しそうに笑ってくれる(視覚)
おとうさん
赤ちゃんは特に、やたら味覚でデータを集めます。
何でも口に入れちゃいますよね。
あれってやっぱり、視力が未発達だからでしょうか。
そうして言葉を覚え、長ずるにつれ、自分からいろいろなものを舐めてデータを得なくても、
親から、
「それは危ないよ」
と教えて(情報)もらうことで、効率的にデータを得ることが出来るようになります。
自我が形成され、さらに成長すれば、自分で読書をしたり、テレビでニュースを目にすることで、
誰かが資料や数値などといったデータを情報化したものを、自分の情報として入手、
自分で直接データを得ずとも、より効率的に
情報を得られるように。
こうして産まれた時から今まで、
自分の五感で得た情報、教育や読書などによって得た情報の積み重ねが、
その人の思想信条、価値観、美意識、経験、体験、コンプレックス
あらゆるものを含めた人格となり、
今度はその人格というフィルターを通して、情報を取捨選択し始めます。
例えば、自分の興味ある本から、価値観の似た人から、情報を得るといった風に。
しかし、こうして得る情報は、果たして、真に正しい情報なのでしょうか。
脳内のデータの情報化が不安定な理由
「記憶術師シィー」として有名なユダヤ人ソロモン・シェレシェフスキーは、
完璧な記憶力の持ち主として知られています。
長い数列や文章をいくらでも記憶し、何十年か後に問われても、
その記憶を引き出すことが出来たそうです。
共感覚とよばれる感覚の持ち主は、このように驚異的な記憶力を発揮することが多く、
シェレシェフスキー自身も共感覚者であり、
通常の共感覚者は文字に色を感じたり、音に味を感じたり、といった単調な感覚の組み合わせのものですが、
シェレシェフスキーの共感覚は、
視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚の五感すべてが連動されたものであったとか。
彼のその完璧すぎる記憶力は、彼が生きていくことを困難にしました。
記憶、イメージがリアルであり過ぎたが為、
彼が子供の頃、学校へ向かっているつもりが、それは想像の中で学校へ向かっていたもので、
いつまでたっても部屋から出てこないことを心配した父親が、
彼の部屋に入ってくることで、現実に引き戻される、といったエピソードがあるほど。
このことは例えば、
VRで映像を観ている(視覚)とします。ヘッドセットを装着しているのだから、
当然音は左右からリアルにステレオで聞こえるとして(聴覚)、
そこに見えている物のニオイ(嗅覚)、触れた感覚(触覚)、味(味覚)まで感じることができたなら、
仮想の空間と、現実との境が消えてしまうと思いませんか?
想像とリアルの境をなくし、鮮明過ぎる記憶の場を構築する鍵が、
この辺りにあるように思います。
又、
シェレシェフスキーは物事の本質を捉えるのが苦手で、
人との会話中も、長い物語を読んでいる時も、
本質でないものを忘却することが出来ない為に、
その言葉ひとつひとつから想起されるイメージに翻弄され、
会話も読書も支離滅裂になってしまい、
彼は、忘れられないことに苦悩する人生を送ったようです。
想像してみてください。
大切な想い出のない人生を。
このシェレシェフスキーの一生は、
脳内で行われるデータの情報化について、いくつかのヒントを与えてくれます。
人はデータを情報化する為に言語を獲得する
「赤ちゃんの頃はひたすらデータ収集のみ」の項目でも述べましたように、
赤ちゃんの頃は言葉も未だままならないので、五感によるデータの収集のみです。
それが抽象化する為(本質でないものは忘却する為)のツール「言語」を手に入れることで、
データを情報化することが可能となり、
1歳頃までは全ての赤ちゃんが共感覚を持っているとされていますが、
「言語」を手に入れることで五感ひとつひとつが独立(おそらくは五感のひとつひとつを「言語」が橋渡しすることによる)、
共感覚を失う代わりに、
忘却する(抽象化する)機能を獲得する、と私は考えます。
驚異的な記憶力の持ち主シェレシェフスキーも、不思議と赤ちゃんの頃の記憶はなかったようで、
言語を獲得することで個々に独立するはずの五感が、
なにゆえ連結したままの共感覚として残るのか、私ごときには分かる訳もなく、
個性、
と言ってしまえば簡単にすぎて、この記事を読んでくれるみなさんに、怒られてしまうでしょうか。
この項目をまとめると、
人は物事を抽象化する為に(必要でないと判断したものを忘却する為に)、言語を獲得する、ことが言えると思います。
このことから気になることがあります。
物事の抽象化の仕方は、ひとそれぞれであって、
必要でないとするものも、ひとそれぞれであるならば、
個人個人が手に入れたデータを情報化する、その精確性に疑問符がつかないですか?
脳が勝手に自動処理
みなさんも経験があると思いますが、
自分が気になっている服や車を、気にしだしてから、やたら街中で目にするようになったり。
副業を始めてから、やたら副業の情報が耳に入るようになったり、
そんなことってありますよね。
よく云われることですが、自分の鼻は本当は見えているのだけど、
データとしては目から脳に届いているのだけど、
(片目をつぶり、鼻を見ようとすると見えてきます)
目に見えるものを全てデータとして取り込み、情報化してしまうことを
脳が無駄と判断し、認識しない様に自動処理、見えなくしているそうです。
飲み会の騒がしい中で、不思議と自分の名前を使った会話が耳に入ってくる事象、
いわゆるカクテルパーティー効果も同じです。
データとしては全ての会話が耳に届いているのだけど、
耳に聞こえるデータを全て、常に認識してしまうことを脳が無駄と判断、
自動処理し自分に関係のあるデータのみピックアップしているのです。
もう、この時点で、
自分がデータより得た情報を発信する、
その信頼性が揺らぎませんか?
自分が常日頃考えている事とは関係のないデータは認識しないよう、
自分の脳が事前に処理してしまっているのですから。
自分の、でさえです。
ましてや他人の発する情報など、
その人の価値観や思想信条など分かりようがないのだから、信頼できるでしょうか。
「信じる」しかないのではないでしょうか。
他人の発する情報は、その人が五感により得たデータを
人格というフィルターを通し情報化したものです。
どれほど有名な専門家、評論家であろうと、他人の価値観、気持ちなど分かりようがありません。
例えばコップに半分ほど水が入っているとします。
この水の半分入ったコップを視覚にてデータとして取り入れ
脳で情報化する時、
時と場所、あるいは人によって、そこから得る情報は大きく違ってきます。
同じ半分の水でも、砂漠に居るひとは、
「もうこれだけしかない・・・」と絶望するかもしれない。
都会に居る人は、
「まだこれだけある」と安心していられるでしょう。
飲料水として販売している人は、
「これは〇〇波を〇日間照射した特別な水で、まだメディアにはとりあげられていませんが、
新型コロナにも効果があるという実験結果も・・・云々」
データを捏造してまで、あなたに売ろうとするかもしれない。
今は情報の時代。
様々な情報が飛び交っています。
今日は正しいとされた情報が、明日になれば間違いになる程、情報は不安定です。
専門家が推奨したはずの、コロナウィルス対策の為に施されたパーテーションも
今や意味が無いと、別の専門家より情報がでています。
誰一人として本当のことなど知らない、
そのことさえ分かれば、目にした情報を即信じ込み、
拡散してしまうことも無くなるのではと、私は思うのです。
陰謀論について熱く語るあの人も。
陰謀論を信じる人は、知能が低いという研究結果が出てると語る、人を見下す性癖のあの人も。
本当のことなど何も知らない。
自身が常日頃考えていることに関係のあるデータ、情報をかき集めてきては、
自分好みの「物語(=夢)」を創造しているに過ぎない。
情報というものが、放つ人の人格の一部であるとしたら、
情報を否定された人が、ひどく怒るのもなんだかわかるような気がしませんか?
だとしたら、人それぞれの情報を、お互い尊重するのが、
真の在り方ではないでしょうか。
新型コロナに関するワクチン反対派のあの人も、
あくまでもデータは脳が勝手に取捨選択したものです。
賛成派のデータなど目や耳に入らないでしょう。
新型コロナに関するワクチン賛成派のあの人も、
同様に、あくまでもデータは脳が勝手に取捨選択したものです。
反対派のデータなど目や耳に入らないでしょう。
情報の正しさを示すため、
公文書が論拠にされることが多いですが、
公文書が改竄されなかったことは過去に一度もなかったでしょうか。
その人が論拠としてあげる公文書だけが改竄されていないとする根拠は何だと思いますか?
国が、行政が、役人がそんなことするわけがない。
100%ないでしょうか?
どの情報もデータを所持している当事者に直接聞いたとしても、本人が嘘をつくかもしれない。
忖度するかもしれない。
空気を読むかもしれない。
組織の力に負けるかもしれない。
真実を語るなと、脅されているかもしれない。
データや論文、証拠さえ捏造されているかもしれない。
嘘をつけば莫大な報酬を約束されているかもしれない。
100%真実とは言えない。
彼自身の情報に問題は無くとも、
彼の脳が自動処理した、彼の人格というフィルター(主観)を通した、
情報である以上、100%真実とはいえない、
だとすれば、
残るは、相手を信じるか信じないか、それしかないと私は思うのです。
様々な種類の存在する共感覚の共通の特徴として、
記憶を助ける、といったものや、
無意識に起こるものでコントロールはできない、等があるようですが、
他に、情動を伴う、といった共通の特徴があるようです。
たとえば、文字に色を感じる共感覚者が、
計算をしていて、答えに書いた数字に自分の嫌いな色を見ると、
たとえその答えが正解だったとしても、
自分の好きな色を放つ数字に書き換え、間違いの解答をしてしまったりといったことが起こるのだとか。
私が冒頭の定義づけで、
五感で得たデータと一緒に、感情もデータとして蓄積されるとしたのは、
恐怖、不安、怒り、喜びといった感情が、
赤ちゃんが言葉を獲得する以前から存在するものだからであり、
抽象化しがたい、正体不明のもので、
常に五感で得たデータと感情はセットで、情報化されるからです。
私はこの感情という名のデータを情報化し、整理することが、
(心の奥深く、澱のように蓄積された正体不明の感情を整理することが)
できるだけ真実に近い情報を発信する為の、
ひいては、人格をより良くしていく為に役立つのでは、
と考えます。
感情という名のデータを、いつまでも正体不明のまま蓄積させておくことの危険性
ここで感情という名のデータを無駄に蓄積していくことで、
脳内で情報化するときに、起こるであろう弊害について述べてみたいと思います。
アメリカ軍で行われる訓練にSEREと呼ばれるものがあります。
SEREとは、
Survival、Evasion、Resistance、Escape(生存、回避、抵抗、脱走)の頭文字をとったもので、
Resistanceの過程においては、
捕虜となった状態をあえて経験し、尋問をはぐらかし、拷問に屈しない技術を訓練するようです。
その拷問を経験する訓練においては、
まず尋問の間は尋問者の目だけをみるように指示されます。
その間、尋問者による質問に答えなかったり、目をそらしたり、従順でない場合は殴られる、
無理な姿勢を強制される、といった苦痛を伴う訓練です。
尋問後、今度は独房に閉じ込められ、
別の人間により、一枚の顔写真を見るように指示されます。
訓練を行う者は、顔写真を見ながら目をそらすことを許されず、尋問の内容や尋問者に関する質問をされます。
「尋問者はどのような懲罰をあなたに行いましたか?」等。
この時、見るように指示された顔写真は、尋問者とは違う人物が写っています。
訓練終了後、
人物の写された写真を数枚渡され、尋問者はどの人物であったか問われた時、
10人中9人は、実際に尋問を受けた人物の顔写真でなく、
後で見せられた顔写真を選択してしまうそうです。
訓練を受けた屈強な兵士でも、です。
このことは、脳内でデータを情報化する際、恐怖や不安といった感情が情報を歪めてしまう証拠であります。
また
アメリカの認知心理学者であるエリザベス・ロフタスという人の研究は、
記憶というものが、如何に感情により歪められるか、
変異してしまうかを知るうえで役立ちます。
ロフタスさんの行った実験では、
被験者に自動車事故の映像を見せて後、
映像を見たグループのひとつには、
「車が激突した時、どのくらいのスピードで走っていたか?」を尋ね、
もうひとつのグループには、
「車が当たった時、どのくらいのスピードで走っていたか?」と尋ねます。
その結果は、激突した時、と尋ねられたグループは平均で時速66キロ、
当たった時、と尋ねられたグループは平均で時速55キロと回答、
同じ映像を観たのに、質問で用いる言葉のインパクトの違いによって、
スピードの感じ方にも違いが出る、というものでした。
また、この実験の一週間後、
同じ被験者を集め、「割れたガラスをみたか」を質問したところ、
映像内にてガラスが割れることは一切無かったのですが、
激突した時、という言葉で尋ねられたグループでは、32%が「割れるのを見た」と答え
当たった時、と尋ねられたグループは、14%が「割れるのを見た」と答え、
これもまた言葉から受けるインパクトの違いにより、差がでました。
ロフタスさんの別の実験では、
同様に参加者に対して幼少期の虚偽の記憶を与え、
その記憶を思い出させる回数が多い程、その虚偽の記憶が、真実に経験した記憶として鮮明になっていく、
といった実験もあり、
人は経験したことがない出来事を経験した、と記憶する場合があることを証明しています。
以上のことから、
情動を伴ったまま脳内でデータを情報化する、
その不安定さが幾分かでも分かって頂けたかと思います。
では、この感情という名のデータをクリーンアップするには、
どういった方法があるのでしょう。
感情という名のデータを解き放ち、できるだけ真実に近い情報を発信するには
まずは冒頭の定義でも述べましたように、
夢をみることで、感情という名のデータは整理される訳ですから、
質のいい睡眠を十分にとることです。
他に、
これは真実の情報を見抜く力にもつながることですが、
人格を磨くこと。
そうして、感情に振り回されない自分になること。
それが何よりです。
(偉そうにすみません。私はほぼ出来てないです。感情に振り回されっぱなしです)
過去を生きた先人たち学び、未来を生きる人々を想い
家族、あなたが住んでいる街、住んでいる国この日本、世界の人々を、
自分にできるだけ出来るだけでいい、広く想う人は、
真の情報を発信することができます。
より多くのひとの幸せを願う人は、
私利私欲から離れることが出来、
日本、世界、と多くの人を想う空間が広がれば広がるほど、
自我がより小さくなり、感情に踊らされることが少なくなるからです。
また、その為には、
時の流れに想いを致し、
この国を、世界をよりよくしようと命を懸けた人々に学び、感謝し、
未来を生きる人々のこと、子供達の未来を思いやることです。
できることなら、特定の組織に属さないこと。特定の宗教組織にも属さないこと。
当然ながら、しがらみが発生し、思うように発言できなくなります。
自分の子供がお世話になった、ただそれだけのことで相手の非を正すことが出来にくくなるのですから、
組織に属すれば、その組織の意に縛られてしまいます。
又、組織に属することで、
「あの人は〇〇に属している人だから」といったレッテルをはられることは避けがたく、
たとえ、あなたの発する情報と、その組織が発している情報が違っていても
同様にされてしまい、あなたの情報の信頼性が薄れてしまいます。
できるだけ真実に近い情報かどうかを見抜くには
その人の発する情報が真実かどうかを見抜くには、
その人の人格が、謙虚であるかが一番のポイントになると私は思います。
人の情報を尊重することなく、批判するひとかどうかを。
より多くの人の幸せを願い、
今この時代を生きる人達のことだけでなく、後の世の、
この国を、世界を生きる人々のことまで考慮に入れ情報を発信する人は、
自分ひとりでは何一つできないことを知り、
その無力感に涙し、自然、謙虚になります。
人々の幸せより、
自分の利益のみ、自分の見得のことだけ考え情報を発信するような人は、
人のことなど頭がまわりません。
平気で嘘がつけます。
自分とは真反対のデータを、間違って目にし耳にし、
脳が認識してしまっても、受け入れることはしないでしょう。
公のことを想い、発言している人は信頼できる情報源足り得る。
自己中心的な、自分の利益、自己満足の為の発言が散見されるような人は、
信頼性が薄い。
それを見抜くためにも、
信頼できる情報源を得る為には、時間をかけること。 (言い換えれば、自分から情報を取りに行くこと)情報よりも、情報源である、その人の人となりを、
よく見て、よく聞いて、大袈裟ではなく何年もの時間をかけて知る必要があります。
その為にも、己も人格を高めることです。
自分自身の人格を高め、より深く人の気持ちが分かるようになれば、
情報というものが、データといった無機質なものではなく、
人の心次第でどのようにでもなる、人間性を帯びたものである以上、
そういう人のところへ、真実の情報は集まってきますし、
相手が真実の情報源かどうか見抜く上でも、必ず役立つはずです。
後は、体力をつけること。
意外かもしれませんが、正しい情報を見抜く上で、体力はとても重要です。
疲れていると、人は間違った情報を選択しがちです。
私も経験があるのですが、
仕事から疲れて帰宅し、家族は関係ないはずなのに、家族に対しイライラをぶつけてしまう。
ただただ情けなく申し訳ないのですが、
体力がないと、情報の選択も発信も、投げやりになりがちです。
ネガティブな思考は、ネガティブなデータ処理を脳に許可してしまいます。
心身ともに健康であることは、情報を見抜く上でとても大切です。
まとめ
以上が私の思う、情報論でした。
私は専門家でもなく科学者でもない、ただの高卒の肉体労働者ですので、
理解不足、言葉足らずなところが多分にあるとは思いますが、多めにみてやってください。
これからの時代は情報の時代です。
真実の情報を見抜く力、真実の情報を発信する人間性が大事になってくると思います。
とはいえ私は大人には期待していません。
既に個の確立した大人の人間性を変えるのは、不可能にちかい事を重々承知しています。
(既に真実の情報を発しておられる人以外は)
今更、大人に、真実の情報を発信してくれなどと、
言ったところで無理でしょう。
人を変えるよりも、自分が変わる方が早い。
私は、まだまだ思考の柔軟な、子供たちに期待します。
サンタクロースを信じ、ヒーローに憧れる、未だ純な心を残す子供たちに。
私は時々想像します。
今、こうしてパソコンに向かい画面を見ながらキーボードを叩いている自分、
この自分は夢をみているのだとしたら・・・
シェレシェフスキーのように、
あまりにリアルな夢であるばかりに、現実を生きている、
真実の自分に戻れないでいるのだとしたら・・・
この人生を生きる私にもいつの日か、あの世に旅立つときが必ずきます。
年をとり、老衰でしょうか。
今際の際。
ベッドに横たわり、感謝の涙があふれ、頬をつたい落ちてゆく。
そのあふれ出た涙から、
枕元にヒヤッと冷たさを感じた、
と同時に私は亡くなる。
夢から目が覚めると、そこには今は亡き私の愛犬ハチがいて、
私の枕元で片足をあげ、ジョーっと大量のオシッコをしているのに気づく。
そう、私の一生は、養老孟司さんの実験のように、
愛犬のオシッコの冷たさというデータを情報化した、
ただの夢であった、
なんて、
人の一生も人類の情報の一部なんじゃないか、ってオチなのでした ヽ( ´ー`)ノ