真実とは

 

真実とは何か。

僕の思う真実とは、

 

神様=大人=FREE(無料)=FREEDOM(自由)=真実

 

この記事は、こちらの定義にのっとって話を進めたいと思います。

定義というより、僕にとってはこれが真実であり、

僕が生きていく上での価値観です。

 

神様=大人

大人になるということは、人間の人格が神様に近づいていく事と、本来、同意であって、

西洋思想の云うように、

人間とは別に特別な存在として、遥か頭上に神様がいて、人に対し罰を与えるような存在では決してない。

神様は僕らが(本当の意味で)大人になった姿です。

 

神様=FREE(無料)

神様は人間が幸せに生きていくのに必要なものすべてを、

無料で提供してくれているので、お金がないなどと思い煩う必要はない。

又、

人間が幸せに生きていく為に、

お金をかけず、この身ひとつで出来ないことは何も無い。

幸せの為、

生きる不安を取り除く為に、

健康の為に、

死後の平安の為に、

高いお金を支払う必要はない。

これぞ詐欺にひっかからない妙法ナリ。

 

神様=FREEDOM(自由)

大人(神様)になる途上においては、すべてが自由です。

あれをしてはいけない、これをしてはあの人が…、

と思い煩う必要はない。

失敗を恐れず、

自由に生きてこそ、ひとの成長はあります。

みんなが自由に生きてこそ、人類は成長するのです。

ただ勘違いして欲しくないのは、

欲望の、感情のおもむくまま、自由に生きる、という意味ではありません。

あくまでも、

大人(神様)になることを志す、そこを前提とすることに注意して下さい。

欲望、感情のおもむくまま自由に生きることは、

停滞、後退、

大人(神様)になることを志すことは、

発展を意味します。

 

大人(神様)になるという事、

それは魅惑の日々を、

ひとりひとりがひとつひとつ捨て去っていく事と同意。

その上で、

神様は何も禁止などしていないのです。

他人のことをなんとも思わないような人間が、

わがまま勝手に自己主張し、力を持つような社会であっては駄目です。

心根の優しい良いひとこそ、

遠慮せず、もっと積極的に前に出て、

あなたの想いを主張しましょう。

そうであってこそ、

あなたから放たれる神様の光の柱が、

そこに、立派に輝くのです。

再び言います。

神様は何も禁止などしていません。

 

神様=真実

真実を知るということは、神様を識る(しる)事と同じで、大人(神様)になるにつれ、

自分にとって必要な、真実の情報も知ることが出来、

余計な情報に、振り回されることがなくなるものだと、僕は思います。

真実(叡智)を識れば、

書をすれば書に秀で、

絵を描けば、絵の達人の如くに。

周りの人達に慕われ、苦悩もなく、

誰にも、あらゆるものにも依存することなく、

病は自分で癒やし、いつまでも若々しく健康でいられ、

死する時を己で決める。

それが大人(神様)であり、

それが真実。

真実を知ることは、神様を識る事と同意です。

 

赦しとは、踏みにじられたスミレの花がそのかかとに放つ香りである By マーク・トウェイン

 

僕がこのような考えに至ったのは、僕自身、

その大人(神様)に会ったことがあるからです。

 

僕の会った神様は、とても懐かしくて、とっても優しい、ずっと会いたかった、亡くなったおじいちゃんのような存在でした

 

20代の頃、僕は酷い皮膚病を患いました。

皮膚科の先生いわく、珍しい病気、難病とのことでした。

ステロイドを処方され、塗り続けるも一向に治らず、むしろ患部はひろがっていく一方。

そのかゆみは凄まじく、

一度掻き出すと止まりません。

なぜかというと、快楽といっていいほど気持ちいいからです。

その気持ち良さは身震いする程でした。。。

患部はゴム状に固くなっており、爪をたてて力強く酷く掻きむしっても、

肉がめくれて痛むことはなく、そのゴム状の患部の上は、

じゅくじゅくとしていて、そのじゅくじゅくの上は、

かさぶたでおおわれていました。

一度掻き始めると、そのかさぶたを全てはぎおとし、

血と膿の臭いでいっぱいになるまで、手はとまらなかったです。

その後にくるのは絶望ともいえる後悔の念。

掻けば、酷くなるし、患部も少しずつ広がるし、

何より、また快楽に負けてしまったという気持ちがありました。

起きている間は掻くことを我慢できたのですが、

一旦眠りにつくと、本能を抑えるのは難しく、

どうしても掻いてしまいます。

その対策にと、手を縛って寝たりしたものの、

先の見えない病との闘い。何日も何日も、毎日手を縛って寝るうち、

手を縛る前にウトウト寝落ちてしまうこともあり、

その時に掻いて後悔。

せっかく長い間我慢して、かさぶたがかなり固まっていたのに、

また一からのやりなおし。。。

(とはいえ、その固まったかさぶたを触ると、ズルっとめくれ、

 その下はじゅくじゅくとしていて、到底治癒するようには思えませんでしたが…)

 

指の関節が曲がらなければ、掻くという動作は出来にくくなると考え、

指の関節を固定する器具を自作するも、これまた装着前に寝落ちすることがあり、

断念。

 

そんなことを何年も繰り返すうち、当初、患部は服で隠せるような所だけだったものが、

マブタや耳の穴の中等、顔にまで広がっていきました。

外出時は大きい患部には包帯を巻くものの、動く度に服とこすれるその不快感。

これほどひろがっていく恐怖に苦悩しているというのに、

いったん掻き始めると快楽に負けてしまうその後悔。

僕はもう気狂いしそうな程でした。

 

その日も僕は、寝てる間に掻き始めてしまい、

足のスネ、ふくらはぎ、太もも、背中、お腹、

手、腕、二の腕、顔・・・

身体中、すべてのかさぶたを掻き落とすまで、

手が止まりませんでした。

後悔、絶望、もうこれ以上広がるなら、死んだ方がマシだ。。。

何故、神様は僕にこんな酷い仕打ちをするのか。

神様なんて、いないじゃないか。

僕が何か悪い事をしたって言うのか!?

 

僕は本当に、心の底から神様に向かって、怒りをぶつけていました。

 

もうこの世にはいない母方の祖父は、リウマチを患っていて、足を引きずりながら歩くその姿が、僕は子供ながらになんとなく薄気味悪く思ってしまっていたのでした。じいちゃんちに行くと決まって僕の隣に座るじいちゃん。じいちゃんはきっと、僕のそんな気持ちにも気づいていたはずで・・・将棋を教えてくれたじいちゃん。冗談をよく言ってたじいちゃん。難病のリウマチはとても辛かった様で、じいちゃんのベッドの枕元には民間療法にてリウマチに効くとされる、このドクダミに関する本がたくさん並んでいたのでした。

 

その時、

  

頭上から白くまばゆい光がいきなり射したのです。

その瞬間僕は、表現しようのない感情に溢れ、包まれました。

感動で嗚咽し、感謝の気持ち?神様を疑っていたことへの申し訳なさ?

それは自分でもよくわからない感情でした。

ただただ、わけも分からず、有難いという気持ち。

その想いに溢れ、僕は、泣いて泣いて。

泣き終わる頃、僕の皮膚病は消え去っていたのです。

 

この光については、合気道の開祖、植芝盛平

ハンセン病患者の為に人生を捧げ、

「美智子皇后の相談役」といわれた神谷美恵子さん

も語っておられます。

他にも、情報として目に触れることが出来ないだけで、

数多くの名もなき方々が、この光を体験されておられるでしょう。

 

この光(神様)に会えるかどうかは、何も特別なことではありません。

特別な努力も、才能も必要ない。

生まれも育ちも学歴も、関係ない。

信じられるか、どうか。

たったそれだけのことです。

心から信じた瞬間、会えます。

ただ、

この話を聞いて、

何か自分とは違う特別な世界と思った、その分だけ、

低俗ないわゆるスピリチュアル系の話だな、

と嫌悪感を抱いた、その分だけ、

自らその光より遠ざかり、拒否しているのです。

信じることが出来ないでいるのです。

(僕の場合は、少し逆説的ですが、

 神様を信じていたからこそ、心の底から怒りをぶつけることができたのだ、

 と僕は考えています)

とはいえ光は、

そのように神様を信じない人間さえも、

優しく包み込み、いつも、僕らのそばで、今この瞬間も、

見守ってくれています。

 

僕らは、あまりに真実とは違うことを信じすぎているだけなのです。

 

もうひとつ、

この時、

僕はこの光に治してもらっています。

 

ここを女性の方に読ませるのは忍びないですが、

それは、

僕が幼い頃、男性器部分に受けた怪我によるものです。

書くのも語るのも、ずっと躊躇してきた部分ですが、

より神様の存在を、

信じてもらいやすいと思われるので、書くことにします。

 

男性の方なら、よくご存じだと思いますが、

思春期に包皮がむけてきたころ、僕は何かおかしい部分があることに気づきました。

亀頭と包皮が三分の一程、癒着していたのです。

(右側はキレイにむけるのですが、左側は尿道口の数ミリ下から

 癒着していて無理でした)

 

 

なにぶん、恥ずかしい部分なので、当時、子供ながら親にも相談できず、

医者にも診てもらってはいません。

ヽ( ´ー`)ノ

自分で調べたところ、怪我をしたまま放置すると、

その傷部分が治癒していく時に、皮膚が癒着してしまうことがあるようでした。

 

これについて、

心当たりがあるとすれば、ひとつしかありません。

 

小学3年生くらいだったでしょうか。

僕らの地元では毎年夏休みに、ソフトボール大会があり、

地区ごとにチームとなり練習をしていました。

子供の頃の僕は、それが嫌で嫌でたまらなかったです。

何故って、

僕らの地区は運動場ではなく、デコボコの河川敷で練習するものだから、

地面をバウンドして勢いよく向かってくるボールが、

いきなり目の前で、向きを変えたり、大きく飛び上がったりする、

それが怖くて怖くてたまりませんでした。

デリケートな部分に強烈な打撃を受けたのも、この所為、この時です。

練習を終え家に帰って、パンツの中を見てみると、

血で染まってたのをよく覚えています。。。

 

おそらくですが、この時の怪我が原因と僕は思ってます。

癒着の仕方は、両生類や水鳥の水かきを想像して貰えば理解しやすいかもしれません。

この水かきをハサミで切ってしまえば、指と指がキレイに切り離され独立するのに。

それに似た思いで、何度も何度も癒着部分を剃刀で切ろうとするものの、怖くて出来ませんでした。

引っ張っても、引っ張っても、長年(怪我をしてか

ら、包皮が完全に剥けるまで、10年ちかく知らなかった気づかなかった)癒着していた部分です。

絶対に無理でした。

針で少し傷つけて、そこから・・・

と思い切って試したこともありますが、

痛くて痛くて、男性の方なら理解できると思いますが、

皮膚は厚く、裂くなんて、

絶対に無理でした。

(包皮を自力で裂くことを想像してみてください。。。

 絶対に無理ですよね?)

 

光を浴びて気づくと、

その長年のコンプレックスが、きれいに、なんの跡形もなく、

治されて(直って?)いたのです。

もし、病院で手術していたなら、縫合跡が一生残っていたのかもしれません。

 

(神様は外科的な治療もできるのか・・・)

 

イエス・キリストは目のみえない人も癒したとの言い伝えを、

キリストの偉大さを後世の人が、より神秘化する為に作られたもの、

とする向きもあるようですが、

僕はこの経験から神様に出来ないことは無いと思っています。

思っている、ではなくそれが真実なのだと。

 

以下は、

これら経験により、僕が至った価値観です。

 

子供の頃、学校帰りに姉や幼馴染みが、れんげの花で花冠りを作ってたっけ

 

神様=大人

 

神様は僕らが(本当の意味で)大人になった姿であり、

僕らが考えているような敷居の高いものじゃない。

「スピリチュアル」という言葉さえ忌み嫌う、

現代のこの空気感のように、

僕らにとって神様は、口にするのも憚られるものじゃない。

 

僕の会った神様は、

人生における、どんな失敗も、誰にも言えない過ちも、

すべてを受け止め許してくれる、

そんな存在でした。

 

大丈夫。

大丈夫。

ぜんぶわかってるよ。

よく今までがんばってきたネ☆

 

そう言ってくれてるかの様でした。

 

不道理な行いをしたからといって、罰を与えるような存在ではない。

規律に背いただけで、地獄に落とすような存在では決してない。

とても親しみ深く、どこか懐かしく、人間とは別格の存在では絶対にない

 

あなたは思春期の頃、

何か親に怒られるような悪い事をすると、

まともに親の顔を見れなくなった経験はありませんか?

 

僕らが神様に会えなくなる原因は、それに似ています。

 

誘惑にひきずられ、過ちを犯す、

その度ごとに、親(神様)の顔をまともに見れなくなる。

親(神様)の顔色を窺ってるなんてカッコ悪いぜ、

なんて仲間内の空気感に、親(神様)を嫌悪するようにさえなりましたよねw

 

真実は、

神様(親)はいつも見守ってくれている、

というのに、

僕らが拒絶しているだけ、

なのです。

 

おまけに世界中をこの空気感が支配しているのだから、

幼いうちに、

僕らはこの空気感に洗脳されてしまいます。

心のどこかで神様を信じるのは、

低学歴の人間がすることのような気さえしてしまいます。

(これは日本人だけですが)

 

夏が終わり、肌寒くなる頃、どこからともなく金木犀の香りがして、秋の訪れを実感します

 

何千年の間、繰り返されてきた過ち。

その度ごとに、僕らは神様から遠ざかりました。

太古の昔に、

自分だけ利益を得たい者たちが、

本来必要も無いのに、神様との仲介役を名乗り出て、

神様(親)と人間(子)を分断。

人々の患う病、地震等の天変地異は神の怒りなのだと嘘をつき、神への祈祷を行ってみせる。

「何もないのは祈祷のおかげだ」

「治ったのは祈祷のおかげだ」

「祈祷のおかげで、その程度で済んだのだ。

 祈祷の力がなければ、もっと酷かった」

己に依存させ、人々を支配する。

もっと利益を得る為と、

神様は何も禁止などしていないのに、

あえて神との仲介の為の禁止事項を作り、

親の顔を二度と見れない様するかの如くに、

禁止事項の過ちを犯させる。

更に利益を得たいが為に、

もっとこっちの方が楽しいよ、

神様なんか忘れちゃえよと、

お互いに憎しみ合わせ、

破壊、暴力、快楽をそそのかす。

そのまま何千年もの間、人類は、

その時代ごとの支配者に、

権能を奪われたまま、依存したまま、なのです。

  

他人を押しのけ、

過ちを犯したその分だけ、

嘘をついたその分だけ、

僕ら人類は、神様に顔向けできないでいます。

何千年という時をかけ、

自ら遠ざかっていただけなのです。

 

紫陽花の多くの人が花びらと思ってる部分は花びらではないって、知ってましたか?紫陽花の花言葉は『家族』

 

あなたは死後の世界を信じますか?

「死後」と書くと、

「死」の文字にどうしてもネガティブなイメージがある為、

信じる信じないよりも、

そもそも考えたくない、というのが誰もが抱く気持ちではないでしょうか。

誰もが皆必ず死を迎える、それは明日かもしれない、というのにです。

死後の世界、言い換えれば天国、

その天国がどのような世界か、行ったことはないので僕に説明することはできませんが、

魂だけが抜ける状況、いわゆる幽体離脱を経験したことがある僕は、

ひとはこの肉体だけで生きるものではなく、

魂も存在するのは、なんとなく実感できるのです。

 

幽体離脱

幽体離脱で意識が2つに!僕の幽体離脱体験談

 

人は生まれてくるとき、神様と一緒に、

どの国の、

どの親の元に産まれようか決め、

この世界に誕生してくるのだ、

と古よりの聖賢がたは云います。

 

それが真実ならば、そのことをどうして忘れてしまうのでしょう。

 

子供の頃は寝て起きた時、よく覚えていた夢の内容も、

大人になると、よほど強烈な内容の夢以外は、

ほとんど覚えていないですよね。

それに似たものだと、僕は思ってます。

 

人が生まれ、死を迎えることと、

人が眠りにつき(死)、朝目覚めること(誕生)は共通するものとし、

生物学者エルンスト・ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」といった概念や、

フラクタル」のような考え方で神様と人間の関係性、

自然や生命について、僕は捉えているのです。

 

眠りにつくのは、毎日死を迎えるのと同じ。

朝夢の内容を覚えていないのも、何故かすぐ忘れてしまうのも、

産まれる前のことを覚えていないのも、同じ。

眠ることが怖くはないように、

死は本来、怖いものではない。

ココ大事です。

ぼんやりと、なんとなく、でもいいので覚えておいてください。

あなたの幸せに役立つ日が必ずきます。

(僕も覚えておきます☆)

 

「あぁ、疲れた」

と、心身を癒す為に眠りがあるように、

最期の死も同様です。

ただ、このような捉え方は、どうしても自死を誘発してしまうのでは、

と思われるかもしれません。

それは違います。

神様の力はオールマイティです。

神様を心から信じていれば、

自分の苦しいその状況も、

神様があなたの学びの為、あなたにとってちょうどいい環境に置いてくれていることが分かるはずです。

自ら己の命を絶つことは、その神様の存在否定と同意です。

そこに待ち受けるのは神様とは対極の世界。

神様を信じていれば、自死など絶対にありえません。

 

子供の頃、たくさん採ったツクシを母が佃煮にしてくれたのを覚えています。意外にも栄養価が高い山菜なのだとか

 

筋を通すこと。

矛盾を無くすこと。

出来るだけでいい。

自分の中で、筋が通ってない部分、

矛盾してるなぁ、と思う部分に気づき次第、正していってください。

神様を信じるならとことん信じる。

筋を通す、己の矛盾をできるだけ無くしていくことは、

本当の意味で大人になっていく為に大切な生き方です。

 

筋を通していれば、死後の世界(地獄)も存在しなくなるのが理解できるはずです。

神様を心より信じていれば、

神様と一緒に産まれくる場所を決めた、その世界(天国)に戻るだけのことです。

 

神様と一緒に産まれくる場所を決めた、その天国のことを覚えていられないのは、

この現実の世界が、あまりに真実とはかけ離れた世界だから。

真実とは違う世界観が為に、死後(天国)の世界を考えたくないから。

人が人格を高め、神様に近づくとき、

人は天国のことを忘れないでいられるようになると僕は考えます。

人が本当の意味で大人(神様)になり、真実の死後の世界を理解したとき、

ひとはあの世にいっても、現世のことを忘れることなく、

現世の僕らを見守ることが出来るようになるのではと、

僕は思うのです。

 

善悪二元論で物事を見ないことの大切さ

 

揉め事が起こった時、誰かを批判したくなった時、

ひとはどっちが良くて、どっちが悪いと責め裁きがちですが、

僕はできるだけ、

善ならどちらも善、悪ならどちらも悪、という視点で見るようにつとめています。

必ずその視点に自分も含めて、です。

(人のサガとして、どうしても自分を棚に上げ、誰かを責め裁きがちですが・・・)

どちらも同じくらい良い、同じくらい悪いとはいえないと思うので、

%(パーセンテージ)で考えます。

あっちが断然悪いだろうけど、こちらも数%は悪いとこがあったかもな、と。

 

例えば、仕事場でAさんと自分の間に揉め事が起こったとします。

この場合、どうしても自分を正当化しがちですが、

自分を正当化(善)したいなら、Aさんも正当化(善)してあげる。

いやいやAさんの方が絶対に悪いだろ(悪)、

というのなら、自分にも悪いところ(悪)がなかったか考える。

たとえ数%でも、1%でもです。

(揉め事が起きた時に、自分を正当化したい気持ちはよくわかります。

 僕も、まだまだ、瞬間的にカッとなりやすいので。

 でもちょっとはコチラも悪かったかもな、と探してみる。客観視してみる。

 だから、%、比率で考えます。これだったらできますよネ)

 

どちらが良い悪いではなく、

どっちも良いか、どっちも悪いか、です。

 

人間関係における揉め事は、その場の状況(空間)だけで起きるものではありません。

お互いのちょっとした言動が積もり積もって(時間)、起こるものです。

自分に相手を見下す気持ちがなかったか、

そもそも出会った当初から拒否感、嫌悪感を抱いてはいなかったか、

どっちも悪い、或いはどっちも良い、といった視点を持つことで、

それらが客観視できるようになります。(←ココも大事ですネ)

 

AさんとBさんの間に起きた諍い(いさかい)でも同じです。

(あなたは第三者)

あなたの気分によっては、どちらも良いように見えたり、

どちらも悪いように見えたり、

あるいは、片方は全然悪くなくて、

どちらかが極端に悪いように思えたりするかもしれません。

いずれにしても、必ずあなたも含めて、みんな良い、或いは、みんな悪いと考えてみてください。

(そのトラブルには、直接は無関係なあなたも、

 同じ環境に居る以上、責任はゼロではないのです)

 

会社という狭い環境だけではありません。

この社会、

日本で起こる凶悪犯罪も同様です。

犯罪者に対し、なんて悪い奴なんだ、と思いがちですが、

できることなら、犯罪者にも必ずあるであろう善の部分をみてあげたいものです。

いやいや、そんなん出来るわけないだろ、というのなら、

(僕も同じです。凶悪犯に対しては死刑でいいだろ、と思う派です)

自分も含めて悪と考える思考が大切です。

社会をより良くするように、自分は行動したことがあるだろうか。

(僕はありません。すみません。だからこそ謙虚な姿勢につとめます)

道ですれ違う人に対し、我先に進もうとせず、常に思いやりをもって接していただろうか。

(僕も出来ていません。イライラしがちです。だからこそ人を批判しない様つとめます)

バタフライエフェクトの概念が云うように、

あなたのちょっとした言動(批判、悪口、自分勝手な行動)が、

世界の大きな争いを起している可能性は、ゼロでは絶対にないはずです。

 

戦争が起きて、なんて悪い世の中だ、

と思うのなら、自分も含めて悪いのです。

戦争解決の為に何ら行動を起こしてないのですから。

(ひとりの人間が行動したところで戦争がなくなる訳がない、

 というのは違います。現に行動を起こされてる方はたくさんおられます。

 結果、戦争がなくならなくてもいいのです。

 大事なのは行動を起こすこと)

自分は良い人間だと思うなら、戦争で人を殺す人間も含めてみんな良い人なのです。

世界中の誰もが、誰かの犠牲者なのだから。

 

家で腰を落ち着けて食すのではなく、道草で食べるとけっこう美味しい草イチゴ。学校帰りに見つけると必ず取って食べてました☆

 

太極図的思考法(陰陽二元論)

 

上の項の、善悪二元論は、

神様(大人)と人間(子供の様に自分勝手な人)の関係性において、善悪二元論的に考える危険性を述べました。

親と子が、人としてどちらが優れているか、という思考のおかしさは誰もが理解できるように、

神様の人格により近づいていこうと志す時、

いまだ大人度10%の人間(幼い考えのまま大人になってしまった人間)を、

80%の人間が揶揄するのはおかしな考え方であるのは、

誰もが分かりますよね。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」です。

人格の磨かれた大人程、未だ子供の様な振る舞いをする大人に対しても寛容であるべき、

と僕は思います。

 

冬になると山になった籾殻が燃やされていて、炎は出ていないのですが、登下校中の子供たちは皆そこでしばらくの間、暖をとってました。あったかかったなー☆

 

ただこの世には、女性と男性、右と左、水と火、月と太陽、空間と時間、

といった二元的性質があります。

昨今は、これら二元的性質を、より多元的(虹色)に思考したり、

どちらか一方に優劣を加え、そのことついて少しでも異を唱えようものなら、

たちまち差別主義者だと、分断する動きが活発化しています。

(この種の方々は何故だか、

 目など本来2つずつしかない身体のパーツを、複数持つキャラクター(3つの目とか、腕が複数とか…)が好きです・・・)

 

これに対しても、多元的或いは一元的に考えるべきでしょうか?

あなたはどう思いますか?

 

  

これは太極図と呼ばれるものです。

森羅万象、大自然は、ふたつの性質、陰と陽が存在し、

お互いバランスをとりながら、

育成、愛護していくものとし、その姿を表しています。

半分に分けたところで、陰だけを100%、陽だけを100%取り出すことはできない。

どこで半分に切り分けても必ず、ふたつの性質が入り混じります。

どちらかが100%ということは絶対にない状態を表現した図でもあります。

 

水はあくまでも水であって、火になることはできません。

水の性質1%だから、残り99%は火の性質だとして、

ほぼ火の性質じゃん、

てことで、水は存在しないよ、

としてしまっては、

水も火までも存在出来なくなってしまいます。

 

ちなみにこの陰陽思想では、
水(ミ)と火(ヒ)、右(ミ)と左(ヒ)で、
水と右は同じ性質を持つもの(火と左も同様)、と捉えます。
身体はミ、心はヒ、このことから、魂である霊はヒ。
人(ヒト)とは
神様より縦(時間)に流れくる霊(ヒ)を、この横の世界(空間)にとどめる(ト)もの、だからヒト、
なのだと合気道の先生に教わりました。

 

あくまでも例えですが、

女性ホルモン80%男性ホルモン20%で生きる男性も存在するでしょう。

だからといって、

そこに善悪、優劣をつけるべきではありません。

 

陰陽それぞれの性質において、

陰の性質が大きい(陽の性質が小さい)陰が存在していたり、

陰の性質が小さい(陽の性質が大きい)陰が存在していたり、

陽の性質が大きい(陰の性質が小さい)陽が存在していたり、

陽の性質が小さい(陰の性質が大きい)陽が存在していたり

それぞれに、万物を育成、愛護していくのに大切な存在であって、

どちらか一方の性質を否定したり、

ここに新たな別の性質を投げ入れるのは、

万物育成の動きを止めるもの、

先程の項では、神様と人間を縦に分断する恐れを述べましたが、

こちらは、横に人類を分断する行為であって、

危険である、と僕は捉えています。

(欧米では、お母さんをお母さんと呼ぶ事が、性差別にあたるとし、お母さんと呼ぶ事を止めようとする動きがあるようです。

お母さんになる事ができない人は、お母さんという言葉に傷ついてしまうのは理解出来ます。

だからといって、お母さんという言葉自体をこの世から消してしまうのは、やり過ぎではないでしょうか)

 

この項は誰かを傷つける、誤解を招く恐れがある為、

これ以上、深堀はしないでおきますが、

僕も自分の考えが、100%正しいとは、考えていません。

批判、僕の論の矛盾点等あれば、お教え頂けると幸いです。

 

子供はみんなサイコパス

 

以上、

縦軸と横軸、

神様と人間の縦(時間)の関係において、

2元的に思考することの危険性、

人の世が、人の世として始まる為に、

陰と陽、ふたつの性質に分かれ、

万物を育成するハタラキをしている、

森羅万象、大自然の横(空間)の関係において、

そのハタラキを、

一元(一方の存在を否定したり、優劣を加える行為)、或いは、多元的(破壊的に)に捉えようとする、その危険性について、述べてきました。

 

僕の考える本当の意味での大人とは、これら踏まえたうえで、

大人度100%、神様にできるだけ近づいていく事です。

僕らは、100%にはなれません。

未だ感情の泥沼から脱することのできない僕などが、宇宙創成を語るなどおこがましいのですが、

神様100%ということは、ビッグバンが起こる前、

100%になるということは、空間が消滅してしまう、

私の、あなたの、個も消失し、神の法則だけが残るということ、であろうと考えます。

だから、

100%になることは出来ず、

僕らにできるのは限りなく近づいていく事です。

 

先にも述べましたように、

僕らが大人(神様)に近づいていく、

大人度100%に限りなく近づいていくことで、

この世はより平和になり、

個人においては、より幸せになっていくものだと、

僕は思います。

 

本当の意味での大人とは、

身体だけが体格立派になったものではなく、

常に人格を磨き、神様を志してこその大人です。

ただ、世間一般では、18歳を越えれば一律大人として認識され、

そこで、学ぶこと、本当の意味で大人になることを志すのを止めてしまう人が、ほとんどです。

上の項で述べた表現で言い換えますと、

身体だけは立派で、精神は大人度20%(子供度80%)程度で大人になったような気になり、

そのまま周りの迷惑になってることも省みず生きている、

身体だけ大人(大人子供)の方が、この頃は増えましたネ。

 

田んぼのあぜ道に咲いていたあの彼岸花。モグラやネズミから稲を守る為に、(球根に毒があることから彼岸花を嫌うのだとか)植えられたそうです。

 

誤解を恐れずに言うと、

僕は、子供はみんなサイコパスだと思っています。

愛すべきサイコパス☆です。

(人によっては「子供は小さな怪獣」と表現されたりしますが、同じ意味合いです。そこに見下す気持ちはありませんし、そのように僕は努めています)

自己中で、

集中力は凄まじいですが、飽き性で、

周りが見えておらず、その周りが見えてない事も理解できていない。

(子供は車が来ていても、気づかず気にせず走り回りますよネ…)

裸の心で生きているので、

とても愛らしいですが、身近でお世話する親にとっては、

大変どころではなく、

本当に、

心の底から、

くたびれる程に、

大変だったりします。

ヽ( ´ー`)ノ

 

ただこの子供の心を持ったまま大人になる、

上の項の表現で言い換えますと、

子供度を何十%も残して大人になると、

周りに迷惑をかけて憚らない、

本当の意味での(危険な意味での)サイコパスが出来上がるのだと僕は考えます。

 

あなたのまわりにもこういった大人はいませんでしょうか。

世間一般では、心療内科にて病名を与えられるようですが、

僕は病気などではないと思っています。

病名など必要ないと思っています。

ただ子供の心のまま大人になってしまい、

身体が大人になったので、自分は大人なのだ、

と世間一般的な思考をしているだけなのです。

 

自己中心的で、依存気質で、

自分のことは棚に上げ、責任は転嫁する。

手柄はすべて自分のもので、

感謝はさせたがるが、感謝はしない。

 

僕の職場にも、

このような大人子供(この記事では子供度の高い大人を、このように表記します)が数人いて、

他の同僚には、ほぼイジメではないかという対応をされているのですが、

職場外の人間にはとてもフレンドリーで、

人気があるのです。

(職場など同じ環境で共に過ごす身近な人間からは嫌われている)

僕も入社当初は、何故この人はこのような扱いを受けているのだろう、

と気の毒に感じていたのですが、

この人が子供の気質のまま大人になってしまい、

周りに迷惑をかけるだけなら、まだ許されるのですが、

感謝はしない、責任は転嫁する、

人の痛み、苦労を理解できない、

まわりのおかけで自分が存在する、

という、おかげ様、お互い様の心がない人なのだ、と僕も理解できました。

 

ただ、(ここ大事です

あくまでも程度の問題であって、

度合、%の問題であって、

自己中心的で、依存気質で、

自分のコトは棚に上げ、責任は転嫁する。

手柄はすべて自分のもので、

感謝はさせたがるが、感謝はしない。

そういった心を全く持たない人間など存在するでしょうか。

僕にもそういった部分はあります。

気づいてないだけで多分にあるかもしれない・・・)

自分で認識しています。

認識しようと努めます。

だからこそ、

お互い様の心があって

人は謙虚になるのではないでしょうか。

人を責め裁くことをやめ、教え導く、感化する方へ転換するのではないでしょうか。

僕は、

人を責め裁く心、感情的に批判する心がある以上、

誰しも、

心にまだまだ子供の心が残っているのだと考えます。

お前は病気だ、

あの人は病気だ、

病院行って診断書もらってこい、

と職場のトップから同僚まで、

みんなが(たとえその対象がサイコパスな人物とはいえ)人を責め裁いている状況は、

誰もがみんな幼い思考をするのだな、

本当の意味での大人というのは、

なかなか存在しないものだな、

誰もがみんな(自分も含めて)サイコパスなんだな、と、

逆の意味で僕の学びとなったのです。

 

ここでいう、大人子供(子供度を多分に残したまま大人になったひと)と、本当の子供との違いは、

子供は自己中心的(サイコパス)でも、

縦には肉体の親と繋がっている為、

純粋に親の為にはなろうとします。

なので、公の心を親が教育する、感化する、

子供も親から学ぶ、ことが可能です。

自分勝手な言動をしても、社会との関りも小さく、ほぼ影響もありません。

しかし身体だけ大人の大人子供になってしまうと、

意欲的に学ぶこともせず、公について学ぶこともなく、

社会との関りは大きい為に、

子供のサイコパスとは違い、

本当に人に迷惑をかける、危険な意味でのサイコパスとなってしまうものだと、僕は考えます。

それを避けるためにも、

ひとは、本当の意味で常に(年老いても)学び、己を律する、大人を目指す、志すことが必要ですね。

 

ただ、この大人度は、そのひとがなりたい職業により、

限りなく100%を目指す必要はないと僕は考えます。

宗教家や医師、教育者は限りなく100%を目指すべきではないでしょうか。

人格がものをいう職業だと思うからです。

専門家と呼ばれる人達は、逆に子供度(サイコパス度)をある程度残しておいた方が、

プロフェッショナル性は高まるのでは、と僕は思っています。

子供は集中力が高く、専門性が高いですよね。

とても腕のいい職人が人付き合いが悪かったり、

ユダヤ人にノーベル賞を取得した優れた人物が多いのも、

ここに秘密があるような気がしています。

 

あわせて、

大人になっても変なプライドなど捨て、

子供の愛らしさを上手に残す事で(子供度を残す)

周りの人も慕いやすくなると僕は思ってます。

慕われる人物となるのではないでしょうか。

そのことで愛が周囲へと流れやすくなるのです。

(僕はこれまでも述べました様に、子供度を残すことをイコール悪、と捉えてはいません。

 ジャパン・アズ・ナンバーワンと云われ、日本人が優れた民族とされるのも、

 この辺りの使い分けを心得ていたからだと思っています。【士農工商等、職業による区分】)

 

実家の家の裏は瀬戸内海に面し、その堤防沿いの道にはこのハルジョオンがたくさん咲いてたっけ。。。

 

また、

子供をサイコパスな大人に成長させないためには、

親の為に何かをしたがる、その奉仕の心をできるだけ潰さないことです。

それが公の心へと広がっていく、

そのはじまり、端緒だからです。

例えば、

子供が親の家事を手伝いたがる時。

僕も経験あるのですが、

如何せん自分だけで行った方が早い為、

(イヤイヤ、また今度時間ある時にしてくれよー)

となりがちです。

(洗濯物をたたむにしても、子供に手伝ってもらったはいいものの、きれいにたためてはいないので、

 たたみ終わって、「上手にたためたね!お父さん助かったわ!ありがとう☆」と褒めてやった後に、

 子供の見えないところでたたみ直す、なんてめんどくさい事になりがちですもんね・・・)

そう思った瞬間、たとえ我慢して手伝ってもらったとしても、

それは態度に現れてしまいます。

「ちゃんとやってよ!」

「雑にやらないでっ!」

「丁寧にっ!」

など、ちょっとキツイ言い方でやり方を教え、手伝わせてしまった事が幾度となくあります。

その度に、子供の心を傷つけてしまったと反省する日々です。

(ごめん)

この度に子供は親の為、人の為になにかを行う事(公の心)を、

諦めてしまうようになってしまいます。

(わたしがてつだってもうれしくないんだろうな・・・)

(ぼくがてつだっても、しっぱいしちゃうし、どうせへたくそだもんな・・・)

と。

 

また別の例ですが、

子供が親に褒めてもらおうと、絵を描いた先が、家具だった場合、

できるだけ描いた絵を褒めてやるのが、

子供の才能の芽を摘みません。

また親への信頼を失いません。

公の心もです。

なかなか家具に絵を描いたことを褒めるのは難しいことですが…

ただせめては、

描いた絵がとても上手いことを褒めてやった後で、

怒りの感情は出さずに、

家具には描かないで欲しい事を、優しく伝えてあげたいですね。

 

サイコパス=悪魔

 

ついでに誤解を恐れずに言えば、

僕は、

西洋思想に云う悪魔の正体は、

この子供の心を持ったまま大人になった人間(サイコパス)だと捉えています。

正体は僕らとなんら変わりはない。

結局、神様度(大人度)が低いだけの存在である以上、

恐れる必要などない、

それが僕の価値観です。

 

ただ如何せん、

子供には反抗期というものが存在します。

大人子供(悪魔)にとっても、

本当の意味での大人(神様)は目障わりです。

 

朝顔といえば、青空、夏休み、そんな言葉たちが思い浮かびます

  

真実(神様)はいつの世も、力ずくで抑えつけられてきました。

しかし、

神様のエネルギー(無限)で作られた悪魔に、

神様を超えることはできません。

彼らに出来るのは、抑えつけることだけ。

噴火口を抑えつけるもの(悪魔)が、多ければ多い程、噴火の規模、エネルギーは大きくなるように、

神様は抑えつける力が、

力ずくであればある程、輝きを放ちます。

逆説的にいえば、

神様は決して悪に負けているのではなく、輝いているのです。

  

イエスキリストの受難。吉田松陰の生涯。

万能である神様が、力に負けると思いますか?

いえ。

負けてなどいません。

輝いているのです。

 

受難の激しさ、

志の高さからくる言動に比例して、

輝くのです。

 

勝ち負けではない。

西洋思想の云うように、神様と悪魔は戦ってなどいません。

この世のあらゆるものすべて、神様の作ったもの。

悪魔さえ、です。

 

子供を教え導く際、何もかも親が代わりに手を出しては、

何の意味もありませんよネ。

子供が宿題のドリルをするのに、答えをハナから見て記入しては、

何の意味もありません。

かけっこ1位になれなかったと泣く我が子に、

「次はお父さんが代わりに走ってやる!」

という親はいません。

 

神様と悪魔の関係も同じ。

親と子の関係です。

それが真実だと僕は思っています。

 

成長する為に負荷が必要なのは、個人も人類も同じ。

いろいろと心配になるのが親心ですが、

子供の成長を待ってやる、じっと見守るのが本当の愛です。

よく子供が疑問に思う、

「神様が存在するのなら、神様に出来ないことがないのなら、

 どうして戦争をなくさないの?」

の答えはコレです。

 

僕たち大人は、本当は戦争を無くしたくない。

それが真実です。

 

子供はみんなタンポポの綿毛が大好きです。僕もそうでした☆

 

僕たちは戦争を無くすために、神様が現れたら、

その神様をよってたかってなぶり殺しにするだろう。

自分たちの利益、地位、今ある生活を守る為に。

その兆しとして、

僕らは神様を口にするものを揶揄します。

平和を口にする者が命を絶たれても、

メディアの論調に合わせ、死者に鞭打ちます。

それが真実です。

 

僕らはみんなサイコパス。

それが真実。

 

神様は

そんな僕らのことも常にそばに寄り添い、

あたたかく見守ってくれている、

それも真実なのです。

 

僕がこの項で伝えたいこと。

 

悪魔なんて本当は存在しないよー。

誰も悪くはないんだよー。

誰かを責めたって、しゃーない。

悪いと言えば、自分も含めて、みんな悪いんだよ、

ってこと。

 

僕の生まれ故郷は「秋穂」秋の穂と書いて「あいお」と読みます。秋穂小学校の校歌には菜種の言葉が使用される程、菜の花の多い町。

 

神様=FREE(無料)

 

 

ワシントンにいる大統領は、私達の土地を買いたいとの手紙を送ってきた。

だが、空がどのように売り買いできるのだろうか?土地を買う?

この考えは、私達にはとても奇妙だ。

空気の清々しさや水のほとばしりを私達は所有していないのに、

どうしてそうしたものを売り買いできるのだろうか?

この地球のどの部分も、私達にとって神聖なものである。

輝く松葉の一本一本が、砂浜が、

深い森の霧が、草原が、羽音をたてている虫たちが・・・・・・。

すべてが私達の部族の体験と記憶の中で神聖なのである。

私達は、静脈に流れている血液を知っているように、

木に樹液が流れていることを知っている。

私達は地球の一部で、地球は私達の一部なのだ。

香る花は私達の姉妹であり、熊や鹿や大鷲たちは兄弟だ。

ロッキーの谷、牧草地のミルク、ポニーの体温、

そして人間、みな同じ家族である。

 

-後略-

 

『シアトルの手紙』 渡辺昇一訳著より

 

この文は、1854年、アメリカ先住民の部族長シアトルが、

アメリカ政府との戦いの末、先祖代々住み慣れた土地を奪った、

そのアメリカ政府宛に送ったものです。

 

この世のあらゆるものすべて、神様の作ったもの。

誰のものでもない筈です。

大地の、天からの恵み。

すべて無料、タダ。あらゆる場所に存在するものがです。

ただ、真実神様)は利益を得たいものにとっては、今も昔も邪魔でしかありません。

真実(神様)を識ってもらっては困る。

万能である神を人間とは別の存在とし、人々からその能力を取り上げ、

神と悪魔の戦いを作り上げる。

現代風に言えば、

何千年と続き、一番成功しているマーケティング手法(¥洗脳込み)です。

病を自分で癒してもらっては困る。

用いる薬剤から、死ぬタイミングまで、全てコミコミでの、その利益です。

宗教をビジネスにする者は、庶民に死を恐れてもらわねば困る。

政治をビジネスにする者は、情弱(情報弱者)に存在してもらわねば困る。

真実(神様)を識られては困るのです。

 

神様と無料という俗っぽい言葉を並べて申し訳ないですが、

神様が無料というのは、僕自身が病気を癒してもらった経験からです。

およそ生老病死の苦悩を超えるのに、お金なんて必要ありません。

それが真実です。

健康も、幸せも、ひらめきも、才能も、

神様に近づく努力をするなかで、神様より流れくるものです。

日本人は元来こういった考えをもっていたので、

世の中の役に立つ大発明をしても、

特許を取らず、無料で世界に開放したりしますよね。

 

鬼滅の刃に出てくる鬼達が、藤の花を嫌うのは、平安朝の藤原家を連想しての事だとか…

 

医療からの自立

 

この身体がすることに間違いはない。

それが僕の信念です。

この身体、あなたの身体も、

間違った動きはなにひとつしていません。

常に癒えているからこその、身体に現れる症状です。

血圧が高くなるのも、血管にどこか詰まり気味の所があったからでしょう。

年配の方は、管が老朽化してるからこそ、血圧を高めにして健康を保っているのです。

風邪をひき、高熱が出るのも、病原菌と闘っているからこそ。

咳がでるのも、鼻水がでるのも、病原菌を追い出そうとするからこそ。

癒えている、癒そうと身体が働いているからこその症状です。

身体は何も間違ったことはしていません。

なのに僕らは熱を、血圧を下げようとします。

咳を、鼻水をとめようとします。

一生懸命働いているのに、お前(身体)のやり方は間違っている、

お前のやっていることは信じられない、

そう言われたらあなたはどう思いますか?

「やってられっか!」

そうならないでしょうか。少なくとも僕は人間がまだまだ出来ていないので、

仕事をボイコットします。

 

ちなみに、皮膚病等、皮膚に現れる症状は
胃腸に溜まった毒素が、正常に皮膚より体外へ排出されたもの、とするのが東洋医学の考え方です。
ですので、ステロイドで症状を抑えつけては、抑えつけられた毒素が再び胃腸に戻り、
胃腸を痛めてしまう、と東洋医学ではされています。
僕は、決して西洋医学を全否定している訳ではないのです。症状の緩和は本当にありがたいのですが、
ただ薬を処方するだけではなく、食事の改善など、根本原因の指導も含めての医療ではないでしょうか。
西洋医学の医師には、対症療法にのみ終始し、
薬を与え続けるだけで、根本原因を探ろうとしない方が多いように見受けられます。

 

とはいえ、子供達は十分に身体が出来上がっていないため、

子供達の症状に対しては、慎重な配慮が必要です。

高熱が出れば痛みに対して配慮し、熱を下げる薬を飲ませるのが愛情だと僕は思っています。

 

このあたりの理屈については、

金魚を幼魚の頃から飼育すると様々な病気にかかり、

成魚にまで成長させるのは難しいのと似ています。

幼魚から飼育すると、様々な、病気に対処する細やかな配慮が必要であり、

ペットショップでハナから、体力十分、充分耐性のついた成魚を購入して飼育する方が、

病気もほぼかかることもなく容易です。

僕は会社の同僚に、自分は病院や薬に依存しないけど、

子供に対しては薬を使用したりする理由について問われた時、

(同僚は僕のその行為は矛盾してるのでは?と、問いたい訳ですね)

この説明をするのですが、

その度に、「金魚と人間の子供を一緒にするな!」

と怒られます。

(*´ -`)

 

また話が前後し申し訳ないですが、

一度キレイに癒えた僕の皮膚病は、何ヶ月か後、

再びぶり返しました。

 

僕がこの時、どう考えたか。

 

神様は確実に、厳然と存在する。

けっして人間の苦悩に対し、沈黙しているわけではない事もわかった。

(一度はヒントをみせてあげるから、後は自分で考えてごらん)

神様はきっとそう言ってる。

難病を癒してもらって、コンプレックスの怪我まで治してもらって。

再びぶり返したのは、僕に原因がある。

(上の方で述べた、筋を通す考え方です)

そこから、自分の食生活を見直したところ、

問題だらけでした。

僕は缶ジュースを、毎日一日に10本20本と飲んでいたのです。(夏場)

 

客観的にみると、こんなの病気になって当たり前、となるのでしょうが、

人間、なかなか自分の過ちには気づけないものですネ。

 

コスモスの語源はギリシャ語からきているそうで、「秩序」、「調和」を意味し、宇宙をコスモスと呼ぶ時、その完璧さを現しているとのこと。カオスはコスモスの対義語。秋桜は元来、「あきざくら」と読み、それをコスモスと読ませるようになったのは、あの山口百恵さんの名曲から、なのだとか

 

世界には、様々な難病を患い苦しむ方が、数多くおられます。

自分に原因などない方もいらっしゃるでしょう。

何故神様はこのような仕打ちをするのか、

神様が存在するのならば、なぜこの病気を治さないのだ、

と考えて当たり前だと思います。

でも、たとえ神様が病気を癒してくれても、

必ずぶり返します。原因は神様にあるのではなく、僕ら人間にあるからです。

そこは僕らが大人(神様)に近づくため、改めるべき、

真実に向き合うべき点だと僕は考えます。

その場合、個人に責任があるのではなく、

僕ら自身に原因があるのではなく、

社会的な要因がほとんどのように僕は考えています。

添加物、農薬、遺伝子組み換えの食品、身の回りのケミカルなもの。

 

日本の水道水の塩素濃度は世界一だそうです。これは戦後GHQの政策によるものだとか。  
みなさんは、GHQが敗戦国である日本国民への思いやりから、塩素濃度を高くしたと思いますか?
農薬使用量も世界のトップレベルに使用しています(一位は中国で、確か日本は二位だったはず。中国政府は国民の命など眼中にないので、理解できるのですが…)
食品添加物の認可数も、遺伝子組み換え食品の輸入量・消費量も世界一です。
認知症の有病率も先進国で一番。精神科の病床数も、世界一。人口あたりに占める子供の割合が世界一少なくて、若者の自殺率が世界一。
何故こうも健康に害のあるものばかり、日本人が率先して受け入れているのでしょう?データが示す、病気に罹る人の多さはこれらによるものではないのでしょうか?
あなた自身、一度自分の手で調べてみて下さい。ググると必ず相反する2つの情報が出てきます。それが企業側の為の情報なのか、庶民の側に立った情報なのか、それはあなた自身、どちらを信じるかです。家族を守る為に、あなた自身が判断すべき事柄です。(Google以外のブラウザを利用した方がいいのかもしれません)
ちなみにコロナ騒ぎ中、世界一注射を打ったのは日本です。感染者を世界一出したのも日本です。矛盾してませんか?
ヽ( ´ー`)ノ 

 

これらは僕らの社会が一丸となり、考えねばならないことです。

おそらく、今の科学技術があれば、これらのものからの脱却は充分可能のはずです。

それが出来ないのは、

僕らひとりひとりが真実(神様)に目をむけようとしないからでしょう。

 

およそ無料でないものは真実(神様)ではない、

と考えて間違いないと僕は考えています。

自分で畑を耕し、種を植える。

その種を育てる力は無料(神様)です。

 

宗教も医療も、お金がかかります。

無料でできる事が真実です。

無料でできないものは依存、と僕は考えます。

すべての依存が悪いものだと言っている訳ではありません。

僕自身、そう思ってはいませんし、依存する事柄はたくさんあります。

誰かにお願いする、

これは依存とも言いますが、悪い事ではありませんネ。

無駄なリスクを避けるため、リスクを超えてきた先達が教えてくれる。

より理解しやすいよう教える為に存在するのが先生です。

その人の成長につながること、

お互いの利益になる事であれば、

お願いするのも悪くはありません。

僕が大人(神様)を目指す障害になると考えるのは、

生老病死の不安を煽ることで、利益を得るものです。

  

僕が依存する、(あえて依存するという言葉を使わせて頂きます)

お願いする医療も、外科的なものだけです。

事故や怪我で必要な医療。歯科にも歯が痛くなれば通います。

他の内科的な医療は、

身体がしてくれることに間違いはない、薬は必要ないと考ます。

血圧はいたって優良ですが、たとえ高くなっても、

身体が必要あってしていること、正常と捉え、

そのことで医療に依存することは僕はしないです。

高熱が出ても一切薬は飲みません。

手足、頭、胃腸などの内臓、身体のパーツひとつひとつを、

自分の経営する身体会社の従業員と捉え、

従業員(身体)がしてくれることの負担にならないようにと、

食事量を減らすことで、

胃腸の消化へまわす負担を減らしてあげれば、

胃腸も、

「うちの社長は現場のことをよく理解してくれる☆」

と、社長を慕い、社長の為に頑張ろうと、

なお一層、胃腸としての務めを果たすものだと僕は思うし、

どうしても口にしてしまう、添加物や農薬にしても、

日々、身体に、食べ物に、感謝して食すことで、

身体という名の従業員は、

「ウチの社長は、俺のことを認めてくれてる」

と、その力量以上の働きを発揮するようになり、

口に入れたケミカルなものも排出してくれていると、

僕は思っています。

また、

風邪のウィルスの捉え方も、普通は冬になると風邪ウィルスが暴れだす、と考えますが、

僕は、風邪のウィルスとは、春も夏も秋も冬も、年がら年中共生して(いつも一緒に暮らしていて)いて、

冬に人間の抵抗力が落ちやすいから、風邪の症状も現れやすいだけだ、と考えています。

冬になると多くの工業機械が(特に油圧を利用するもの)が不調気味になるのと似ています。

人間も寒いとどうしても身体が縮こまり、姿勢が悪くなりますし、そうなると、どうしても身体の管まで滞りがちとなります。

おまけに風邪ウィルスも熱には弱い訳ですから、夏の気温だけでなく、体温まで熱い状態では、ウィルスも人間に感染できたとしても、体内ではおとなしくしていますが、冬の寒い時期には元気いっぱいに活動しているだけだと考えています。

 

危険思想です。良い子は真似しないで下さい★

 

人間にとって一番必要な、生老病死の苦悩を超える為に、

本来、お金なんて必要ないのです。

お金の必要な苦悩があなたにあるならば、

(何か違うのでは・・・

 自分の考え方に問題があるのでは・・・)

そう考えて立ち止まってみてください。

 

お前はお前で丁度よい

顔も体も名前も姓も お前はそれで丁度よい


貧も富も親も子も 息子の嫁もその孫も


それはお前に丁度よい


幸も不幸も喜びも 悲しみさえも丁度よい


歩いたお前の人生は 悪くもなければ良くもない


お前にとって丁度よい


地獄へ行こうと極楽へ行こうと


行ったところが丁度よい


うぬぼれる要もなく 卑下する要もない


上もなければ下もない


死ぬ日月さえも丁度よい

仏様と二人連の人生

丁度よくないはずがない


丁度よいのだと聞こえた時


憶念の信が生まれます


南無阿弥陀仏

 

僕らは誰もが例外なく、

丁度いい「今」を生きています。

 

良寛さんの言葉とされてきた、この詩。
実は良寛さんのものではないのだとか。
僕もこの言葉を正確に記述しようと調べてる時に、初めて知りました。
商売っ気をだした、どこぞの土産物屋が、
この言葉を知名度の高い良寛さんの言葉として土産物に刻むことで、売り上げアップを謀ったのが真相の様です。
僕も「お前」という言葉の使い方に、なんとなく引っかかるものがあったのですが、いずれにせよ素晴らしい言葉に変わりはないので掲載させて頂きました。

 

運動すればするほど死に近づくが、運動しなければ健康でいられない。その矛盾。

 

ここで「ゾウの時間ネズミの時間」について、

理学博士、佐治晴夫さんの本から紹介させてください。

僕の価値観の多くが、佐治晴夫さんから出来ていると言っても過言ではない程、

僕が影響を受けた方です。

少し長くなって申し訳ないですが、「ゾウの時間ネズミの時間」について既にご存じの方は、

飛ばしてくださってかまいません。

(引用文中、太字は佐治さんが書かれたものを、僕自身が太字にしたものです)

 

私の時間と宇宙の時間

ところで、この本を読んでくださっているあなたがここに存在できたのは、

あなたのご両親となる2人の人が存在したからです。

あなたのご両親が存在するためには、あなたのご両親のご両親、

つまり父方と母方の祖父母があわせて4人必要でした。

こうして、たとえば33代さかのぼったとすると、

今ここにいるあなたを生み出すために直接かかわった人々の数は、

2を33回かけあわせることによって求めることができます。すなわち、

 

2×2×2×2・・・・・・・・・・・・2×2×2×2=2^33 = 8589934592(人)

 

(2^33=2の33乗 【注釈ブログ筆者】)

となり、現在の世界の人口をはるかに超えてしまいます。

1代の長さをかりに50年だとすれば、33代の長さは、

 

50 × 33 = 1650 (年)

 

という短さです。

今から千数百年前には85億人という人口はいなかったわけですから、

どこかで重復して数えたことにはなりますが、

私が言いたかったのは、気がとおくなるほどたくさんの人たちがいたからこそ、

今のあなたがいるということ。

つまり、私たちが存在しているという事実のかげには、

こんなにも多くの人々がかかわっていたということを感じていただきたかったのです。

宇宙の大きさに比べれば、1人の人間なんて、いてもいなくても・・・・・・

などと思いたくなるときもありますが、今の議論を逆にして考えてみると、

もしあなたがここで消えてしまったとしたら、未来世代の構造は大きく変わるでしょう。

その変わり方は、時間がたてばたつほど大きくなっていき、

いずれは宇宙全体の姿を変えてしまうかもしれません。

あなたの存在は、宇宙の未来と大きくかかわっているということです。

こんなにすごいことを教えてくれるのが

単純な算数のかけ算だということもおもしろいですね。

ところで、私がまだ小さかった頃、

「セミさんは地面の中で7、8年も暮らして、

やっと地上に出てミィーンミィーンと鳴いたと思ったら10日くらいで死んでしまうのよ。

だからトリモチなんかでつかまえてカゴに入れるなんてかわいそうよ」

と母にたしなめられたことがあります。

たしかに心情的にはそのとおりでよくわかるのですが、

私には何か割り切れないものがありました。

なぜなら、よそからお客様が見えた時に、応接間に呼ばれて、

葉巻の紫煙がたなびく中で行儀よく座っていなければならない時と、

遊び仲間で「チャンバラごっこ」などをしている時とでは、

時間の流れ方が同じだとは、とても思われなかったからです。

退屈で緊張しっぱなしの時には、たとえ1分であっても1時間のように感じられますし、

楽しいひと時はあっという間に過ぎ去ってしまいます。

話をもとにもどしましょう。

セミは暖かい地中でおいしいものをたっぷり食べてはウトウト眠って暮らします。

そして地上ではまったく違った姿に変身して空を飛び回り、鳴いて暮らします。

人間が赤ん坊の時代から大人になるプロセスとは大違いで、

別の人生(蠅生?)を2回生きるのではないかと思いたいくらいです。

とすれば、セミにとって地中の時間と地上の時間は進み方が違うのかもしれません。

私たちが大人になってからのことを考えてみても、

若い時よりも年をとってからの方が、

何となく時間が速く過ぎ去るように感じているのは私だけではないでしょう。

これは忙しさの度合い(いいかえれば情報量の増大)や

心理的な一面からも説明できそうですが、それ以外に、

細胞そのものの働きの中に根源的な理由がありそうな気がします。

たとえば、細胞分裂の速度や細胞の生存時間なども、

人間の一生を通して一定ではないでしょう。

細胞も時間とともに老廃物などを含むようになるので、

その機能についても終始一定であるとは考えにくいですね。

それぞれの種、それらが生存する環境によってもちがいが生じるかもしれません。

とすれば、物理的な時間と生物学的な時間のあいだにちがいがあってもよさそうです。

ところで、生物学者の意見によれば、

哺乳類にかぎって考えた時、心拍周期、呼吸周期、母親の胎内で過ごす期間、平均寿命など、

生物学的な時間とかかわりそうな因子のほとんどが

自分の体重のおよそ4分の1乗に比例するのだそうです。

  

<数学の言葉が苦手な方は、どうぞこの節の終わり近く、

式が書いてあるところまで読みとばしてください>

 

ある数の4分の1乗というのは、

その数のルート (√、平方根)のさらにルートをとるということです。

たとえば、16のルートは4、さらに4のルートは2ですから、

体重が16倍になると、心拍や呼吸の周期は2倍になるということです。

たとえば、体重30グラムのハツカネズミくんの心拍周期は0.1秒ちょっと、

つまり、毎秒10回前後もドキドキしています。

私たちの体重はおよそ60キログラムで毎秒1回、

そして体重3トンのゾウさんは3秒に1回ドッキンと打っているのだそうです。

一方、標準代謝率、つまり安静にしている時のエネルギー消費量は

体重のおよそ4分の3乗に比例するのだそうです。

4分の3乗というのは、4分の1乗を3乗すること(つまり3回かけあわせること)ですから、

さきほどの例でいえば、体重が16倍になるということは、

16の4分の1乗は2で、その3乗、つまり8倍になるということです。

ゾウさんの体重はハツカネズミくんの10万倍ですが、

エネルギー消費量は5800倍(10万の4分の3乗)しか使わないということで、

このことから、大きな動物ほど細胞はゆったりと機能しているということがわかります。

つぎに、標準代謝率を単位体重あたりに換算してみましょう。

つまり1キログラムあたり、どれだけのエネルギーを消費しているかということです。

まず消費エネルギーは体重の4分の3乗に比例しているのですから、

1キログラムあたりの消費エネルギーは(体重をmで表すと)、

m^3/4 ÷ m = m^-1/4

となります。そこで心臓がドキンとひと打ちするのに消費するエネルギー量を求めてみます。

心臓がひと打ちする時間は体重の4分の1乗に比例するということでしたから、

その時間内に消費するエネルギーは、

 

m^1/4 x m^-1/4 = m^0 = 1

 

で一定となります。

 

〈式はここまでです!〉

 

これはつまり、私たち哺乳類は、

そのサイズに関係なく

心臓ひと打ちあたりに消費するエネルギーは同じだということです。

ここで、ハツカネズミくんからゾウさん、そしてクジラさんまでの平均寿命と、

心拍周期を考えると、哺乳動物は、

その大きさに関係なく心臓20億回、呼吸5億回ほどでエネルギーを使い果たし、

次の世代へバトンタッチするように設計されていることがわかります。

ハツカネズミくんは20億回の持ち分を2~3年で急いで使い、

ゾウさんは数十年から100年くらいかけてゆっくり使っているということです。

多少の誤差はありますが、人間も例外ではありません。

いったい誰がこのようにデザインしたのか不思議ですね。

  

『宇宙はささやく』 佐治晴夫 著

 

哺乳動物に限っていえば、

大きなぞうさんであろうと、小さなハツカネズミくんであろうと、

僕ら人間も、

およそ20億回、心臓が鼓動することで、終焉を迎える、動かなくなる、ということですネ。

 

ということは、

激しい運動をすればするほど、脈拍は強まり、使用できる脈拍数は減り、その分、早く終焉(死)は近づく訳です。

感情的にイライラ、ドキドキする程に、寿命は早目に縮まるということです。

とはいえ運動しなければ健康に生きることが出来ません。

 

家電も使用すればするほど、寿命が近づきます。

かといって壊れるのを恐れ使用しなければ、何の為に購入したのか分からないのと同じですネ。

 

あなたは、

あなたにとって、どのくらいの運動が丁度いいのか分かりますか?

 

このことを知り、死ぬのが怖い人は、激しい運動を控え、ウォーキング程度にされるかもしれません。

それで丁度いいのです。

激しい運動が好きな人、燃え尽きたい人は、

死を恐れるよりも、好きなスポーツに熱中することを望まれるでしょう。

それで丁度いいのです。

 

僕は、僕自身、健康的な生き方をしても、病気にならないとは思っていません。

これだけ、人間の利便性を重視し、

遺伝子組み換え食物、農薬、添加物を口に入れている訳です。

どうあがいても、それらを一切口にせず生きることは不可能である以上、

僕はそれで自分が病気になっても、寿命だと思っています。

 

たとえ不治の病にかかっても、

医者にもかからず、薬も飲まなければ、

丁度いい時に、苦しむことなく、ぽっくり逝けるのだ、

それが僕の価値観であり、

僕にとっては丁度いいのです。

だから僕の生き方を人には、身近な家族にでさえ強要も勧めもしませんし、

人から価値観の変更を指図されるのも望みません。

あくまでも僕にとっての丁度良さであり、あなたはあなたの丁度良さを模索すべきです。

 

僕は、庭師の手で庭園に美しく植えられたものよりも、普通の人々の手により、こうして植えられた桜並木を歩くのが好きです

 

人々の求める、健康で長生きしたいという気持ち。

その為に、ジムにいってトレーニングをする必要などないことが、

この事からも分かります。

(燃え尽きたいこと、他にやりたいことがある方、

 プロのスポーツ選手等、使命のある人は別ですが)

 

余計な筋肉を付けた分、消費カロリーは増え、

摂取すべき食物量も増やさなければならないのは、当然の理です。

食物量が増えるということは、

その分だけ他の命を奪っている、犠牲にしている、

人の手間を取っている訳です。

 

ジムで余計な筋肉を付けず、健康で長生きする為にベストな運動は、

「はたらく」ことです。

働くは、「はた」(周りの人)を「らく」にする事。

無料、タダでできますネ☆いやむしろ(会社で、の場合ですが)働けばお金がもらえます。

鼓動もそこまで高めることもないので、

一生に使える鼓動回数20億回分からの消費量も少なくて済みます。

それどころか、感謝さえされるのです。

良いことづくめですよね。

なのに現代人はわざわざ、お金を払い、時間を割いてまで、

健康の為と称し、ジムに通います。

 

愛が深ければ、街中で、職場で、誰かが困っていた時、

思わず手助けをするものだと思います。

この親切もはたらく、です。

これでもカロリー数値にすれば、そこそこの消費量です。

 

江戸から幕末の頃、念仏を唱え、悟りを得た「妙好人」で有名な源左さんも、

ほぼ居眠りしながら動き回り、人が畑を耕すのを手伝うなど四六時中働き、

米俵も一度に何俵もかつげたとか。

人を思いやり、働いていれば、

自然と必要な筋肉は見につくものです。

 

マイケル・ジャクソンとマドンナが奪い合ったと云われる、ダンサーの

ケント・モリさんは、筋トレはしたことがないのだそうです。

スポーツに必要な筋肉も、

ただひたすらに稽古し、練習に励むことで、

必要な筋肉だけ身に付き、洗練された動きになるものだと僕は考えます。

好きこそものの上手なれ、ですね。

 

宗教からの自立

 

誰もが抱く不幸、災難に遭いたくないという気持ち。

神様の存在を心より信じるならば、

僕らの為にならない環境に、神様が置く訳がないことがわかります。

宗教に依存する必要などないのです。

イエスさんの言葉、

汝の信仰、汝を救えり。

それが真実です。

僕ら自身の信仰心、それさえあれば、何があっても大丈夫。

何より、

大丈夫な人間になるよう努めるのが、大人というものなのではないでしょうか。

「どっちにいくのか迷う。どっちに行くのも不安。

 神様どっちに行くべきでしょうか?」

という依存する態度ではなく、

どっちに行っても大丈夫な自分になる。

あるいは、

たとえどっちに行って、良からぬ状況になっても、いい経験になったと思える精神状態に持って行く、

それが本当の意味で自立した大人というものではないでしょうか。

 

法然さまは、

念仏を唱えれば、誰もが救われる

と説かれました。

それが真実です。

有難いお経は、僕ら自身で日々作り上げるもの。

頭を丸めただけの、平和の為に真実の為に何ら行動しない、

僕らと大して変わりのない人間に、唱えてもらうものではありません。

(僧職の中にも、人格の優れたかたは一部おられると思います)

故人を本当に浄めたいなら、僕ら自身が本当の意味で大人に近づくべきです。 

 

大人になるには、

少しずつでいい、あらゆるものから自立すること。

言い換えれば、依存しないこと、です。

できるだけでいい、責任を取っていく事。

自分の責任は当たり前、心に余裕があるなら、他人の分までです。

他人の責任までとることで、人としての懐の深さが深まります。

 

神様にお願いをすることが、依存する行為なのは分かりますネ。

かつ、それは、

神様を信じることと、矛盾する行為でもあります。

神様があなたの為にならない環境に、

今も未来も、置くわけがないからです。

であるならば、

僕らが日々すべきことは、

大人(神様)に近づくために努力することと、

今のちょうど良い環境においてくれた神様への感謝、

いつも見守ってくれる神様への感謝です。

 

ツツジの蜜☆、吸ったことありますか?

 

神様=FREEDOM

 

鎌倉時代の僧侶、

法然上人は辛い修行を行う僧侶でなくても、

僧侶に依存し、加持祈祷をしてもらわなくても、

念仏さえ唱えていれば、庶民でも必ず救われることを説かれました。

前の項でも述べました様に、

特別な知識も才能も献金、お布施も必要ない、もっと自由に生きていいんだよ。

(神様)は無料だよ☆

と説かれたわけですネ。

  

ただ法然様のその教えを曲解する者たちも多くいました。

念仏さえ唱えていれば救われるのなら、

念仏さえ唱えていれば、盗みも、暴力も、何やったっていいんだ、と。

神様を信じていれば、できるだけ人に迷惑はかけないよう思考するはずなのですが、

やはり子供度が高い大人は、考え方が幼い、

どうしても他人より自分が前に出てしまいがち、

考え方も矛盾しがちです。

  

法然院山門 故郷の町の名が秋穂だからといって、秋が好き、というわけではないですが、僕は秋が好きです。これはよく妻と話すのですが、妻と初めて京都でデートした年の紅葉が、人生の中で一番に、本当にキレイでした☆

  

本当の意味での自由とは。

 

誤解を恐れずに言えば、

神様=自由=死

です。

死は覚悟の意味での死、です。

武士道とは死ぬこととみつけたり、の死、です。

 

本当の意味での自由(神様)には、そう簡単に近づけるものではありません。

日々の努力とそれにより出来上がる覚悟あってのものです。

 

何ものかに依存していては、それは本当の自由ではありませんネ。

親に依存していては、大人として自立できず、

本当の意味での成長もありえません。

神様に依存するのも同じです。

薬に依存するのも、本当の意味で自由ではありません。

本来ならば社会全体で薬を用いなくて済むよう、取り組むべき問題です。

 

とはいえ、既に薬を服用しておられる方が急に服用を止めてしまうと、副作用の心配があります。
対症療法、症状を抑えておいてくれるのが西洋医学。
(本来なら抑えている間に根本治療も行うのが西洋医学のあるべき姿ですが)。
逆に漢方のような東洋医学の薬は、根本原因である毒素を症状として出していくので、服用し始めに症状が酷くなったように見えることがあります。
西洋医学の薬を服用しておられる方がほとんどでしょうから、副作用を回避する為にも、万が一減薬を希望される場合は医師とよく相談のうえ行ってください

 

子供は親に依存します。

それが当たり前です。

年齢とともに、少しずつ親から自立する。

それでこそ、本当の意味での成長です。

大人になれるのです。

親に依存していれば、親が責任をとってくれます。

それでは、いつまで経っても成長できませんよね。

責任を自分でとれるようになってこそ、本当の意味での大人ではないでしょうか。

 

「子供の頃は気楽で自由で良かったなー

 あの頃に戻りたいなー」

世間一般に概念として捉えられている自由とは、

この自由ですね。

親に依存していられるからこそ、得られた自由です。

  

自由とは本来厳しいものです。

だからこそ、誰もが本当の意味で大人(神様)になることに二の足を踏みます。

いろいろなモノに依存する生活の方が、甘くて楽だからです。

(僕も未だに甘い食べ物から脱却できません・・・)

 

当然、逃げるのも自由です。武道においても、特に命の危険がある時、少しでも恐怖を感じたなら必ず、躊躇なく逃げるよう指導されます。逃げ、は決して負けではないです。強くなる事はないでしょうが、大いなる学びは、逃げにもあります。

 

本当の意味で自由になることによって得られるもの『健康』

 

上でも述べましたが、

身体の健康は、はたらく行為、ウォーキングなど、

適度な運動を行うことで得ることが出来ます。

では、心の健康を得るにはどうすれば良いでしょう。

心の健康を得るには、祈ること、です。

できるだけ多くの人々の為に祈ること、です。

それが神様の想いであり、

祈りにより神様の想いで心をいっぱいにすることで、

常に常にいっぱいにすることで、

ひとは神様に近づいていくのだとするのが、法然様の教えです。

 

どういった論文だったか、出所を忘れてしまい申し訳ないですが、

同じ肉体労働でも、ポジティブな気持ちで行うのと、イヤイヤ行うのとでは、

その仕事で身に付く筋力や体力も大きく違ってくる、

という研究結果があるのだそうです。

積極的に仕事に取り組めば、その労働によって体力も身に付くが、

イヤイヤ行っていると、体力も身に付かず、疲れるだけだと云うのです。

 

これは体力だけではなく、技術の身に付き方も同じだと思います。

ポジティブな気持ち(祈り心)で取り組んでいれば、

身に付きやすいのは理の当然でありましょう。

 

神様の心は究極のポジティブです。

だから祈りが大事なのです。

祈りが宗教的で嫌だという方は、感謝でもいいと僕は思います。

常に常に祈りながら、感謝しながら、

はたらく、親切を行う、(ジム通いなど不要)

それだけで、人は健康になれる(技能も身に付きやすい)ことが分かります。

 

また、当たり前といえば当たり前ですが、人間を依存させるあらゆるものからの脱却は、

心身の健康へと結びつくのは当然の理ですネ☆

 

手の中でモミモミ軽く揉むと、手の中から逃げていくねこじゃらし。子供に見つかると必ず引っこ抜かれる運命

 

本当の意味で自由になることによって得られるもの『信頼』

 

昨今はクマによる被害、人の命まで奪われる被害が相次いでいますが、

合気道の開祖、植芝盛平は、

クマと寝て暮らしたという逸話が残っています。

子熊の頃から人間に飼いならされたクマ、

ではなく、野生のクマとです。

植芝盛平はなぜそのようなことができたのでしょう。

答えは、

死ぬこととみつけたり

覚悟、にあります。

誰もが思うであろう、己が死ぬ覚悟だけではなく、

相手の命を奪うだけの技(覚悟)をもちながら、

むやみやたらと人を傷つけることをしないで、

相手に敬意を払う態度からくる信頼。(クマからの信頼ですネ)

 

犬と話す方法

犬と話す方法?

 

これは、植芝盛平の一番弟子、塩田剛三も、合気道で一番最強の技は何かと問われ、

「自分を殺しに来た相手と友達になること」

と答えていることからも分かります。

 

依存をひとつひとつ断ち切っていくことで、できあがる覚悟。

その究極の覚悟こそが死です。

この覚悟こそ本当の意味での自由だと、僕は思います。

(何度も書きますが、自死はあってはなりません。

 自死はちょうどいい場に置いてくれている神の否定になります)

 

常に相手を気遣い、思いやりながら、

相手にも、他者の自由を認めさせるその覚悟は、

大いなる信頼を生みます。

 

弱き者には大口を叩き、強き者にはペコペコする、

ペコペコしないまでも、知らぬ存ぜぬを貫き通す輩が多いのは、

今も昔も変わらないようですが、

弱き者には常に気遣いをもって接し、

強き者のわがまま勝手な振る舞いに対しては、

(自分が困っている事象ではなく、周りの人が困っている事象に対してのみ)

覚悟をもって一言申すのが大人としての責務です。

 

これに関して、

良寛和尚は、誰ひとり一言申すことの出来ない宗派の偉いお坊さん、宗教界に対しては厳しい批判をした、

とのことですし、

妙好人で有名な温和な源左さんも、

偉そうな態度で民衆を見下し法話をする偉いお坊さんに対しては、

平身低頭し聴聞する民衆のなか、ただひとりその坊さんに対し厳しく批判した、

とのことですから、

大人としての責務を全うしてこその信頼であって、

本当の自由、

真の悟りであろうと思います。

 

はたまた、上の『健康』の項で述べたことに合わせまして、

昨今は、個人も、企業も、学校も、

法令遵守(コンプライアンス)の理念から、

何事もリスクを避けて、避けていくのが主流ですが、

リスクを恐れていては、体力も技術も身に付かず、

横並びの画一化された社会(全体主義?)が出来上がってしまいます。

リスクを恐れる人たちの為に、

ポジティブな気持ち(祈り心)で、自らそのリスクをとっていってこその、己の成長であり、

得られる信頼なのではないでしょうか。

 

本当の意味で自由になることによって得られるもの『幸せ』

 

本当の意味で自由になることによって得られた、

健康。

信頼。

お金は有るにこしたことはないですが、

不健康になると、お金など何の意味も持たないことがわかります。

信頼も、お金では得られません。

はたをらくにしようとする、あなたのその愛、気遣いによって得られるのです。

周りのひとに慕われることで得られる平安(人間関係の悩みからの解放)。

その愛ゆえに、期待に応えようと、さらにはたらく。

さらに得られる健康。

さらに感じられる幸せ。

ここまでくると無限ループですね☆

こうすることで、人はどんどん100%に近い幸せ度へ近づいてくのだと、僕は思ってます。

 

蝶々に助けられた話

 

神様=真実

 

この世が勝者の歴史で、

遥か昔より、数多くの争いの結果が、現代であるならば、

どれだけの勝者の歴史(情報)で真実から遠ざかっているのでしょう。

嘘で塗り固められているのでしょう。

癒す力も、己の中の神も奪われ、その奪われた神の為に、

人々は戦うことを余儀なくされています。

真実(神様)は奪われてなどおらず、厳然と己の中に存在するのに、です。

   

 

 

 

 

 

 

 

 

僕たちはいつまでこのような争いを続けるのでしょう。

僕が、この愛する人の命を奪われた者だったとして、

いつか必ず家族の仇をとるのだと、心の底から誓います。

たとえ今生で叶わずとも、生まれ変わってでも、です。

どれだけの喪失感なのだろう。

どれ程の復讐心に苛(さいな)まれるだろう。

「復讐が復讐を生むのだから、復讐心の正当化など間違っている」

それが言えるのは、僕らは彼らではない、からです。

他人事だからこそ、

数時間後には、今、動画を観て感じた憤りも悲しみも忘れ去り、

自分自身はあたたかい家で、

美味しいものを食べ、酒を呑み、性欲を満たし、

画面のムコウの誰かを批判したり、ワイワイ雑談したり、

日々のどうでもいいストレスを笑い飛ばします。

僕も家族と笑い転げ、

深夜にこっそりWEB上のきれいなおねーさんに心奪われたりします。

僕もあなたも、彼らのそばで、それが出来ますか?

 

幸せの四つ葉のクローバーを探す、このシロツメクサ。意外にも「復讐」という花言葉を持っています。ウチの姉や幼馴染みは、このシロツメクサでも花冠りを作ってました☆

 

真実(神様)を識るには、この魅惑の日々をひとつひとつ返上しなければなりません。

それが心の底では分かってるからこそ、

僕らは真実を識ろうとしません。

真実を識ること、平和な世の中にすることが、

僕たちひとりひとりが重い腰をあげることになる、

のと同意なのは、心の底では誰もが皆、理解しているのです。

理解しているからこそ、

平和を口にする者が現れれば、罪びとにしたてあげ、罵倒し、鞭打ち、亡き者にします。

僕も経験があるのですが、

真面目に仕事をする人を見て、

(そんなに真面目に仕事しないでよ。俺が(私が)真面目にしてないみたいじゃん)

って、場面。あれと同じですね。

俺が(私が)真面目にしてないみたい、じゃなくて、真面目ではないのです。

自分のことは棚に上げ、

真面目に仕事する人(行動する人)を、

ベッドに寝転がりながらスマホ片手に、批判する文字を打ち込む。

「人の気持ちを、人権を、命を何だと思ってるんだ!」

批判するだけして自らは行動せず、打ち込んだその手でいそいそと自慰行為に勤(いそ)しむ。

苦しむ人々に真実、寄り添っているのが、どちらであるかは自明の理のはず。

 

彼らの気持ちに心の底から寄り添う時、僕らは同じように涙し、

同じように喪失感を味わい、絶望し、

そして復讐に立ち上がるはずです。

(目には目を、の意味ではなく、

 怒り、覚悟をもって言うべきは言い、改めさせる気魄という意味です)

でも復讐が復讐を生むものならば、

彼らでは無いからこそ、復讐を止める為、僕らにできることが、きっとあるのではないでしょうか。

 

ヘビイチゴ(子供の頃、学校帰りに食べられる、いや、食べられない談義をよくしたっけ・・・)

 

とはいえ。

僕らにとって遠い国の争いごとなんて、所詮他人事です。

あなたは彼らの為に、重い腰をあげますか?

僕は、

思いやりのない、酷い人間かもしれませんが、行動を起こすことはないでしょう。

誰もが皆、

大した人間ではない。

この世のことも、大自然、森羅万象のことも、

大して理解などしていない。

大した思いやりなど持っちゃいない。

誰もが皆、五十歩百歩なのです。

そのことを謙虚に認識できてこその、第一歩です。

真実は、

自分自身が何も理解出来ていない、何もわかってなどいないことが

自分自身で認識できてこそ、理解出来るようになる、わかることができる、

(何度も失敗してこその成功)

誰もがそのことをわかっていながら、

誰もが実行できないのは、

誰もが皆、五十歩百歩、と認めたくない、

俺の方が理解している、

私の方が、大した人間だ、立派な人間だ、

僕の方が思いやりがある、

といったプライドの、感情の問題、

もはや、科学や学問では、如何ともしがたい領域なのではないでしょうか。

 

実業家で著名な松下幸之助さんは、50歳当時まで「哲学」という言葉を知らなかったそうです。

普通の人なら、ましてや立場ある人です、知ったかぶりをしそうなものですが、

松下幸之助さんは素直に「哲学ってなんですか?」

と聞き返されたとのこと。

その謙虚さあってこそ、あれほどの人間力ですよね。

 

謙虚さは大人(神様)の品格のひとつ。

実るほど頭を垂れる稲穂かな、です。

バタフライエフェクトの概念が云うように、

謙虚さを備えたあなたがそこに存在するだけで、

あなたの周りから優しい想いが流れていきます。

 

近きより遠きに及ぼせ

 

葉公問政。子曰。近者説。遠者来。【子路第十三】


(葉公政を問ふ。子曰く、近き者説《よろこ》び、遠き者来る。)


 本章は政治をなすに順序あることを説かれたのである。

即ち政治をなすには先づ近き者から徳を施して悦服せしむると、

遠き者もその徳を慕うて来るものである。

故に必ず近きより始めなければならぬ。

けれども仲々その順序は正しく運ばれて行かない。

私などの如く個人であると、家族、朋友、社会と云ふ順序を辿らなければならぬものである。

大学にも「物に本末あり、事に終始あり、

先後する処を知れば即ち道に近し」とあるのも、

近きより遠きに及ぼせと云ふことを教へたのである。


 処が之れを実際になつて見ると仲々六ケ敷い。

私などもどちらかと云へば、家を粗略にして人の事を重んずる傾きがある。

その順序を謬らず均衡宜しきを得ると云ふことは望ましいことであるが、仲々六ケ敷しい。

言はば内が主となり勝ちになつたり、

外が主となり勝ちになつたりして能く行かぬものである。

私なども実際一方に偏して居ることを知つて居ても、

之れを矯正して均衡宜しきに至り兼ねて居る。

君の国を治めるにその順序を正しくする事は六ケしいものとされて居る。

  

デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一

 

渋沢栄一さん曰く、

あなたの徳、愛は、身近な所から遠くへ流れていくものだから、

まずは身近な人たちを大切にすること、思いやること、が大事であって、

決して、その順序を間違ってはいけませんよー、

と説かれています。

 

幸せホルモンと呼ばれるオキシトシンは、

思いやりあふれた、親切な行為を受けると増えると云われていて、

不安を和らげ、幸福感を与える効果があるのだとか。

このオキシトシン、実は親切な行為を受けた人だけでなく、

親切な行為をした人、この行為を見ただけの人まで増えるのだそうです。

幸せが、バタフライエフェクトの様に伝播する証拠ですね。

 

あなたは身近な人たち、職場の人たちに、特に家族に慕われていますか?

本当の大人(神様)程、身近な人たちに慕われます。

(僕はまだまだなので妻に対しては、平身低頭ですヽ( ´ー`)ノ)

これはひとりの人物をはかる指針となります。

大人(神様)程、身近に愛され、(当然、遠きにも愛され)

子供度の多い大人程、遠きには愛されるが、身近には慕われません。

何故か。

子供度の多い大人は、良く言えば無邪気、悪く言えば人を人と思わない自己中心的人物、

ゆえ、

深く関わらない人間にとってはフレンドリーな愛すべき人物となるが、

身近な人間にとっては、

自己中で迷惑極まりないひと、となるからです。

 

僕らが大人(神様)に近づく為にすべきことは、

身近に(家族に)愛されるよう、慕われるように努めることです。

あなたが立派な心柱であっても、身近に愛されてなければ、

あなたの徳は、日本を、世界を想う愛の心は、そこで止まってしまいます。

 

つまり、

戦争で家族の命を奪われた人たちの為に、

僕らができる、大事な一歩は、

まず身近な自分の家族を大事にすること。

(身近に家族のおられない方は、職場の方々、ご近所の方々)

自分を生んでくれた両親や兄弟姉妹、妻に、夫に、子供達に、慕われるよう、

努めることなのです。

そのことが、この世から争いを無くす、大事な大事な第一歩だと、僕は思います。

 

僕は、野に咲く花で、このツユクサが一番好きかも

 

未来より時間は流れくる

 

私たちは、とかく過去にとらわれがちです。

「 あの大学に行けなかったから出世できなかった」

「あの人と結婚していたらもっと幸せになれたのに」、と。

満たされない今の境遇や気持ちを過去のせいにしがちですが、

ほんとうに過去が未来を決めるのでしょうか。

過去は文字通り、過ぎ去ったものであって、

今、みなさんが過去だと思っていることは、

頭のなかに残っている現在の記憶でしかありません。

過去という実体は存在しないのです。

つまり完璧に固定された過去はありえなくて、

今、この時点で思っている過去は、自分の都合のいいように作り変えたり、

脚色されたりした記憶という幻想に過ぎません。

記憶は、日々、そのときの状態によって塗り替えられ、

変容していくことが脳科学の研究からも確かめられています。

あの時間はもう戻らないと懐かしんだり、もっとこうすればよかったと後悔してみたり、

過去にこだわり続けているのは、あなたが、幻想として創りあげている物語なのであって、

過ぎ去った過去そのものと向き合っているわけではありません。

 

<中略>

 

私たちは、未来を変える自由を「今」 持っています。

そして、「今」という瞬間は、

過去からの集積の結果としての「今」なのです。

これからの未来をどう生きるかによって、

その時々の「今」の集積として降り積もっていく過去は、

未来によって新しく塗り替えられていくことになります。

つまり、その時々で出合った出来事の良し悪しの評価は、その時点ではできなくて、

そのできことの後にやってくる未来が、

それまでたどってきた過去を決めるということですね。

過去が未来を決めるのではなく、

未来が、

それを生み出した過去の価値を決めていくということです。

いいかえれば、

「これから」が「これまで」を決めるということです。

過去も未来も、すべて「今」のなかに含まれているのですね。

過去にこだわり続けることには、意味がありません。

大切なことは、いい未来を夢見て、「これから」の第一歩を踏み出すことです。

とても感覚的な表現ですが、

過去は新しく、未来はなつかしいものなのかもしれませんね。

 

『この星で生きる理由 - 過去は新しく、未来はなつかしく -』 佐治晴夫 著

  

僕の尊敬する佐治さんの著書から、再び引用させてもらいました。

時間は世間一般的には、過去から未来に向かって流れる、

と考えますが、

日本人は、未来から現在(今)に向かって時間が流れてくる、

という価値観で生きていた民族でした。(過去形です)

 

すべては神様よりながれくる。

完璧な神様から、不完全なこの地上に。

愛も。エネルギーも。

科学(ドラえもんで表現されるような未来の科学も)、文化の発展、素晴らしい発明(叡智)も。

それらを地上におろす為に、

みんなで話し合って、協力しあって、

みんなで頑張っていこうネ。

それが和を以て貴しとなす、我ら大和民族でした。

 

人に慕われているからといって、偉いわけじゃない。

その人から出ている神様の愛を、人は慕っているのだから。

人を癒すことができるからといって、偉いわけじゃない。

力は神様のものなのだから。

発明をしたからって、偉いわけじゃない。

努力したのはその人であっても、もともとは神様の叡智なのだから。

 

先程も述べましたが、

だから、

日本人は特許を取る、ということはあまりしませんね。

(この頃は増えてきたかもですが・・・)

 

俺が俺がの、「おれ」がある分だけ、周りを黙らせる支配する力(科学技術力=軍事力)は強まりますが、

他人から慕われることはなく、

幸せ、平和からは遠ざかります。

(隣国を見ればあきらかですね)

 

大切なことは、いい未来を夢見て、「これから」の第一歩を踏み出すことです。

と佐治さんの言葉にもあるように、

未来に希望を抱いて(神様に祈りつつ)

今を努力する。

 

最上級の愛は神様です。

最上級のエネルギーも神様です。

最上級の科学も神様の中に存在します。

最上級の叡智もです。

すべては神様のなかにあるのだから、神様に祈りつつ、

芸術、文化、科学、医学、実業家等、自分の進みたい道を努力する。

そうすることであなたの道は必ず華開きます。

未来に対し、漠とした不安を抱いたまま、今を努力するのではなく、

未来に希望を抱き、今を努力する、

未来から今に向かって、時間が流れくる、

日本人がこの価値観を取り戻すことで、日本の道も華開くのです。

 

最も進化し、最も分化していると云われる植物が、我が国の花、菊だそうです

 

体力があること、運動(はたらくこと)の大切さ

 

僕は20代の頃、10日近く、ほぼ何も食べてない状態で、

肉体労働の仕事をしたことがあります。

(10日、絶食した経験があったので、大丈夫と高を括ってました)

 

(けっこうしんどい、けど、まぁ、なんとかいける)

 

と思ってコナしてたつもりなのですが、

度々、怒られるのです。

シンドいと思われるポジションや労働から逃げてる、

逃げるな!と、何故か怒られるのです。

自分では絶対に、神に誓って、逃げてないつもりなのですが、

(怒られている時は、そう思ってました。えっ?なんで?って)

後になって冷静に客観的に、思い返してみると、

あまりのしんどさに、意識とは別に身体の方が先に逃げてしまってたんですね。。。

 

常に意識して生きないと、身体の状況に無意識に引きずられるのだと、

思い知った経験です。

 

身体の状態に無意識でも引きずられない様にするには、

やはり体力をつける、健康であるのが一番でしょう。

 

合気道を習うことで、力を使わず動作することを若干でも身につけている僕は、

人に比べて疲れにくい方なので、疲れの所為で感情的になって怒ることは、ほぼないですが、

寝入りばな、ほぼ寝たかな、という状況の時に、子供にイタズラされると、

寝てるときですから、当然無意識に、ですが、

ものすごい鬼の形相で子供を叱る自分がいます。

(ふたりとも、ごめん)

子供に甘い自分が、自分でも不思議なくらい鬼になっています。

これが僕の消すべき欠点であろうし、これを消すための体力をつける大切さ、

次の項で述べます、

常に愛深くある、常に祈ることの大切さ、だと僕は思っています。

 

前述しましたように、健康で長生きするのにベストな運動とは、

はたらく、ことです。

(個人的には、ヨガ、合気道もおススメです)

ジムに行って、筋肉を付けたり、ランニングをすることは、

そのぶん寿命が縮まる行為となります。

(寿命が縮まること、イコール、悪ではありません。

 それがあなたの趣味ならば、あなたにとってちょうどいいのならば、

 それがあなたにとってのベストであって、

 寿命が長いからといってイコール、幸せでは絶対ないですよね)

 

体力がなければ、そのぶん疲れている期間も長い訳ですから、

疲れている時は、間違った選択をしやすいのは誰もが知っていることですし、

そのぶん、人生のリスクは高まります。

 

逆に、

体力があれば、はたをらくにできますし

はたをらく(はたを楽にする意味)にすれば、信頼を得られる、人の為になる、

信頼を得ることで、人間関係の煩わしさから解放され、

やる気を得られ、

さらにはたらき、体力を得る、

これまた、無限ループ(当然、いつかは寿命が訪れますが)を手に入れることができます。

 

意識して生きること(集中力)、祈りの大切さ

 

上の項で、はたらくこと(はたを楽にする意味)で、人の為になり、身体の健康にもつながる、

筋トレもそれを職業柄必要とされる方以外は無意味と、と述べました。

 

これに対し、

心の健康を得るには、祈ることです。

心を浄化する為に行う瞑想は、僕は無意味と感じています。

 

まず先に、瞑想が何故無意味と、僕が考えるか、ですが、

山に籠り修行に専念し、心だけを浄化しても、里に降りてくればたちまち汚れてしまうからです。

里の皆と、共に学び、共に行動する中で強くなっていかなければ、

磨いていかなければ、何の意味も無いと僕は思っています。

 

肥田式強健術を創始された肥田春充さんは、自ら編み出したその鍛錬法にて、

心を磨いていったが、人類の未来を憂い、自死してしまわれました。

映画『グラン・ブルー』で著名なフリーダイバーのジャック・マイヨールさんも、

心を磨きぬくなかで自死してしまわれました。

江戸中期の禅僧、白隠禅師もひたすら座禅(只管打坐)の生活の中で、

禅病と云われる病に罹っておられます。(白隠さんは無事、病を克服されました)

これらのことからも、瞑想で心を浄化する前に僕らがまずすることは、

与えられた環境を『ちょうどいい』、

ベストだと考え祈りつつハタラくこと。

そうやって運命や人間関係に揉まれ、心を鍛えていった方が、

その人の生き方に合った鍛えられ方になるものだと、僕は感じています。

スピリチュアルの専門家でも何でもない僕が、

瞑想についてあれこれ云う資格などないのは重々承知しているつもりですが、

瞑想にて浄化をはかるよりも、日々の暮らしの中で心を鍛える方が容易で、リスクも少なくて済みます。

合わせて、

瞑想は禅病のようなリスクがあること、

行うにはそれら知り尽くした指導者が必要であろうこと、を述べておきます。

 

続いて、

心の健康を得る為の、祈りについて述べていきたいと思います。

 

人は日々考えていることが、その人の人格となっていく

これが真実です。

人に対して抱いた嫌悪感は必ず伝わります。

付き合う時間が長くなればなるほどです。

ふとした言葉に。

ふとした表情に。

ましてや体力が落ちている時、病気の時、疲れている時等は、

感情的になり、ついつい人を傷つけてしまいがちです。

また上の項でも僕の経験から述べましたように、

体力が落ちている時は、無意識にしんどいことから逃げようとしますし、

日頃からしんどいこと、リスクのある仕事は、誰かに押し付けたほうが楽だな、と思っていると、

それを隠そうとしても、職場の長い付き合いの中では、

ふとした選択、言動の中にその思いが現れ、

絶対に隠せないものです。

怠慢な心があれば、怠慢な選択をしていく。

無意識に怠慢な選択を数度するうち、怠慢な領域に入っていくのです。

僕の職場でも、信頼されてない人は、得てしてこのタイプの方々であります。

だからこそ、近きより遠きにおよぼせ、

まず身近なひとに愛される必要があるわけです。

 

この為、パナソニックを創業された松下幸之助さんは、

自己観照せよ、と説かれました。

常に自分を客観視することで、内省し、成長せよ、

と言われたわけですね。

ただ、客観視する自分が、ダークな視点であると、

自分は欠点ばかりで、なんてダメな人間だ、となるわけです。

だから、優れた実業家の方々は、皆、神様とセットで自分を見つめることを説かれました。

渋沢栄一さんも、土光敏夫さんもです。

神様の愛と希望と許しをもって、自己を見つめよ、と。

 

祈りのスピリチュアルな意味は、霊感もなく、大してスピリチュアルじゃない僕には説明できないですが、

ただ言えることは、

人生とは選択の連続、

このことは僕らでもわかりますよね?

選択するものは、その時の精神状態に左右されるのも理解できます。

であるならば、

幸せでなくても、常に常に幸せだなぁ、と日々思っていれば、

人生は選択の連続です。

いずれ幸せの領域に到達するのは自明の理です。

 

子供よりへたっぴですね (*´ -`)

  

赤い点で表した現在より、常に上へ上へポジティブな選択をしていけば、

いずれは幸せの領域に到達することがわかります。

(いや、この図で、わかります? (^-^; )

 

こうしてあなたが幸せの領域に到達することで、

その想いは周りのひとへ伝播していきます。

 

あなたが自動車免許をもっておられるなら、あなたも経験あるはずです。

わがまま勝手な危ない運転を自車に対してされイライラし、

そのイライラから自分も、他人の運転に対し荒い運転をしてしまった経験はないですか?

その方がまた誰かに、イライラをぶつけ、更に職場の同僚にも・・・

と、

バタフライエフェクトの概念が云うように、

良きにつけ悪しきにつけ、

あなたの想いは、世界中へと伝播し影響を与えているのです。

上の図で云えば、

イライラしたまま行動していくうち、常にイライラな選択をしてしまい、

職場でもイライラ、家に帰って迄、イライラという状況に陥ってしまう訳ですね。

 

この事とは逆に、

愛にあふれた良寛さんがその場に存在するだけで、良寛さんが何を語らずとも、

その場は優しい雰囲気に包まれたといいます。

念仏を唱えることで悟りを得たとされる、

妙好人の源左さんも、源左さんが争いごとの仲裁に入れば必ず丸く収まったとか。

良寛さんや源左さんは中世から幕末にかけて存在した方々ですが、

現代において、

常に祖先に感謝し、未来の日本の人々の為、わが国だけではなく、

世界の人々の為にも祈りを捧げておられる存在をみなさんはごぞんじでしょうか?

 

椿は多くの品種があり、厳しい冬の寒さにも耐え花を咲かせる姿や、樹齢千年を超えるものもある程、寿命も長い事から、生命力の象徴とされるそうです。古来より、邪気を払う力を有する、神聖な木として大切にされ、「椿」の文字は日本製なのだとか。椿の花言葉に「謙虚な美徳」があります。

 

それは日本の天皇です。

  

僕は我が国の平和の為に、

多くの人が認知していて、多くの人が尊敬している方が、

我が国の心柱に、中心になっていただくべきだと考えます。

国民の為に祈る祭(まつり)と政(まつりごと)、

祭政一致の一つ柱にて、です。

祭はすでに皇室において行われている訳ですから、

天皇に、

となるのが自然であると僕は思います。

もちろん国民すべての意見を聞く必要はあるでしょうが、

僕は、多くの人が認知し、多くの人が尊敬している天皇以外に、

我が国をひいては世界をまとめる中心は存在しないと思っています。

この頃は、子供度の高い国が天皇家潰しに躍起になっているようですが、

どうかみなさん、惑わされず、

天皇家云々の議論には一切関わらなくても大丈夫ですから、

自己の思いはさておき、愛深き祈り心で日々を暮らしてください。

そうすることで、自然に物事が運ばれてゆき、

何を選択すべきかも、自然に、自ずと理解できるはずです。

 

大丈夫です。

 

常に常に優しい想い、愛の想いを祈ることで、

必ずや、

自分も周りの人々も、日本も、幸せの領域へと導かれてゆくであろうと、思います。

 

祈りの言葉は、自分が愛深いと納得できるものであれば、何でもいいと僕は思っています。
できるだけ広い空間の平和を願う祈りを。できるだけ家族だけでなく、日本だけでなく、世界の平和も。
できるだけ長い時間軸の人々に愛の想いを。できるだけ昔の祖先への感謝を。できるだけでいい、未来の、そのまた未来の子供達へ愛の想いを。
愛はあなたの想った人に流れていきます。近所の人々の為に祈れば近所に流れ、世界の為に祈れば、世界大にあなたの心は広がります。
同様に祖先、未来の子供達の為に祈れば、あなたの愛はそのぶんだけ深まります。
ただその際いずれの宗教、組織にも、加わる必要は一切ありません。
ご自分で納得して加わるのは自由ですが、加入しなければ救われないなどは詐欺だと思ってください。

 

神様はプログラマー すべては同期する

 

科学的には人の身体は遺伝子DNAにより、形作られるとされます。

DNAを改変すれば、人間に役立つ細胞を生み出したり、

生物を作り出したりできるという技術も発明されました。

遺伝子組み換えや、ゲノム編集といった技術です。

 

僕も調べるまでよく知らなかったのですが、遺伝子組み換えとゲノム編集の違い、

みなさんは御存じですか?

ゲノム編集とは、ゲノム内のDNA配列を酵素により切断し、

切断されたDNAが自ら修復する過程で、あくまでも偶然任せで、

必要な遺伝子の機能に書き換えられることを狙った技術とのこと。

一方、

遺伝子組み換え技術では、

生物のゲノムの中に、欲しい機能を持つ他の生物の遺伝子を挿入する技術、とのことです。

 

今回この記事に、この違いはあまり関係ないですが、

みなさんはDNAを改変することについて、どう感じられるでしょうか。

これは遺伝子組み換え食品です、と言われて少しくらいならまだしも、

毎日そればかり食べ続けることができますか?

僕の考えは、

そもそも前提として、ちょうどいい環境に置いてくれている神様を全否定している、

と感じています。

少し厳し言い方かもしれませんが、人間自ら、己のエゴで病気を作っておきながら、

その病気を治す技術も己のエゴで作り出している。

まるで、コンクリートで儲ける為、人の住む街をわざわざ破壊するかのようです。

女性を殴っておきながら、優しく支配するDV男の様でもあります。

 

子供の頃、蛍の季節になると、家族みんなでよく蛍を捕まえに行きました。たくさん捕まえて虫かごに入れ持ち帰り、枕元に置いて眺めるのですが、とても幻想的だったのを覚えています。今の時代こんなこと公に口にすると批判されるんだろうなぁ。。。いや、確かに今思えば可哀想ですもんね。m(__)m

 

果たして、

神様のプログラミングされたDNAを書き換える必要はあるのでしょうか。

新薬で多くの病人を救う上で数人の健康な人の犠牲はやむを得ない。

ベネフィットがリスクを上回る、だのなんだの言う割には、

数人の病人はほっとかない訳です。

どちらも数人の犠牲なのに、片方が良くて片方が悪い、

その理由はなんでしょう。筋が通ってないんじゃないでしょうか。

 

そもそも僕は、

DNAに生物の身体は支配されてはいないと思っています。

DNAを改変する → 生物に影響する

が一般的な科学の時系列ですが、

僕は、

DNAも生物の身体も、同期している、と思っています。

DNA(プログラム)をいじるから、生物側が変化するのではなく、

生物側に変化を加えても、DNAが同時に変化する(同期する)、

もしかしたら若干のタイムラグはあるかもですが、

DNA(プログラム)=生物の身体

であって、どっちを改変しても同期し改変される。

よく云われる、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」と同じだと思います。

身体を健康に保てば、精神も健康でいられ、

姿勢を美しくすることで、心も美しくなる。

逆もまた然り。心を正すことで、姿勢も正される。

身体を気遣った生活を心掛ければ、病のDNAも健康なDNAへと書き換えられ、

好きなことに熱中すれば、そのことに特化した肉体と頭脳のDNAへ変更される。

そして、それをプログラミングしてるのが神様であって、

僕ら自身なのです。

 

非科学過ぎる考え方かもしれませんが、江戸時代の技術から見れば、現代の科学技術は非科学に過ぎる訳です。
それよりも、人は何故、非科学だと批判したくなるのだと思いますか?
自分が正しい、自分が一番でありたい、そう思っていれば重い腰を上げずに済む。皆に合わせてたほうが楽。「今の科学を大きく超えたこと言わないでよ。理解できない俺がバカみたいじゃん」分からないことを、恥ずかしくて分からないと言えないだけ。それが真実です。
その心がある分だけ、真実の叡智が降りにくくなるのです。
天動説を誰もが唱える中で、ただ一人地動説を唱える信念と自由な心、イエス・キリストが鞭打たれる中で、イエスを慕う者だと皆の前で述べる勇気があなたにはありますか?
大いなる覚悟を持つことで、僕らは本当の意味での大人(神様)へと近づいてくことが出来るのです。

 

僕らが大人(神様)に近づくとき、

僕らは、己の手でプログラミングする権能を、

癒す力を、取り戻すのです。

  

昨今、流行りのRNAウィルス(風邪)も、

神様がRNAウィルスという名のUSB端末に、人間というデバイスを更新する為に、

仕込んでくれたプログラムと僕は思っています。

アプリやスマホ、PCなどのプログラムを更新すると、不具合が起こりがちなのは、

皆さんアルアルだと思いますが、

僕は風邪の諸症状を、その不具合と同等だと考えています。

なかなか同意し難い考え方だとは思いますが、

人体をアップデートしたいなら、

普通に暮らして、普通に感染する風邪ならば、普通に感染しておくのが良い、

と僕は考えます。

当然、

「デバイスの型もかなり古くて(年老いて)、今更アップデートなんて、もういいよ」

そんな考え方があってもいいと思いますし、

僕も年老いてくれば、そちらを選択すると思います。

それに、

昨今はCRISPR-Cas9(クリスパー・キャス9)というゲノム編集キットがネットで購入できるとのこと。

悪意をもって、ゲノム編集を一般の人間ができる時代です。

神様がプログラムしたものではない、RNAウィルスが既に存在する訳です。

そうそう簡単にウィルス感染する訳にもいかなくなりました。

この悪意を超える力を身につけるには、

僕らが大人(神様)に近づき、

己の手でプログラミングする権能を、

癒す力を、取り戻す、それしかないと僕は思っています。

 

僕はこういった価値観の為、

風邪をひいても薬を飲みません。

高熱で頭痛がしてもです。

高熱の時はついでに熱でガンも治癒されてる、

くらいに考えています。

 

そうすることで、

僕が苦しむことで鍛えぬいたDNAは、

身近な人にも空間を超えて同期する(身近な人は一切苦しむ事無く)、それが僕の考えです。

 

シェルドレイクの仮説のようなものでしょうか。

 

シェルドレイクの仮説とは空間を超え、特定の人物や物体に起きた現象が、
それらに共感する人物や似た物体の上にも起こるとされる現象。
現代科学においては、トンデモ科学、オカルトに分類される仮説です。

 

苦しみや痛みから逃げたい気持ちはわかります。

僕は人が怖がるものは怖くないのですが、

人が怖くないどうでもいいようなことが、とってもこわいです。

未だ、対人恐怖のような状態になったりもします。

昨今で云う、陰キャ、コミュ障ですネ。

でも、追いかけてくる犬は逃げれば逃げる程、追いかけてくる。

これが真実です。

いつかは立ち向かわなきゃ、永遠に逃げ続ける体力もありませんし、時間の無駄です。

熱、咳、鼻水、鼻詰まり、苦しい症状は治ったからこそ現れている症状です。

症状に現れた時には既に治癒してるのです。

人生に起こる苦しいこと、嫌なことも、成長してるからこそ、起きている状況です。

どうぞ失敗を恐れないでください。

失敗しても他人に責任転嫁せず、受け入れることで学びとなります。

失敗を責任転嫁してしまっては、何故失敗したか学ぶことの放棄へとつながるのです。

余裕があれば他人の責任まで負っていくこと。

そのぶんだけあなたの学びとなり、人間としての懐も深まります。

失敗したときには既に成功している、それが真実です。

この地球に起こる、地震、噴火、台風などの自然災害も、

人間の欲で汚れた地球を、地球自ら浄化した時に起こる症状です。

それらは、

僕らが大人度を増すに連れ、だんだんと減っていく現象。

先延ばしにし、溜めに溜めた掃除は大変なように、

地球に溜まった毒素は酷い症状として現れる前に消すこと。

その為の僕らの第一歩なのです。

 

品種の多い梅には花を観賞する為の花梅と、梅干しなどの為、実を収穫する品種の実梅とに大別されるそうです

 

これからの時代の、AIとの付き合い方

 

AIが人間(これまで述べてきた大人という意味での人間)を超えることは出来ません。

それは、

悪魔と神様は戦っておらず、悪魔も、神様が神様自身のエネルギーで作ったものであり、

悪魔が神様を超えることができないのと同じです。

ただ滅ぼすことはできるでしょう。

イエスキリストも、その肉体を滅ぼされました。

だからといって、滅ぼした彼らはキリストを超えたわけではありませんね。

むしろイエスキリストの名はよりいっそう輝き、今もなお多くの人々を感化している訳です。

彼らがキリストを滅ぼさなければ、現代に続くここまでのキリストの輝きはなかった筈です。

超えようとしたが為に、より一層超えられてしまう、

勝とうとしたが為に、負けてしまう、

それが神様(大人)の真の力であります。

古よりの聖賢も、人類はこれまで6度の人類絶滅を経験しており、

今が7度目だと云います。

その真偽は別にして、たとえ人類が絶滅しようとも、

それは子供(悪魔やAI)がリセットボタンを押したのと同意であり、

神様はその行為を暖かく見守りながら、再び、人類の誕生からやり直す、

それが真実であろうと僕は考えています。

極度にスピード化した時代です。

思えば即叶う、実現する、のが究極の科学(神の叡智)です。

原始の昔は、あそこに行きたいと思っても、足で移動するしかなかった。

それが現代では飛行機や新幹線があります。

近い将来もっと早い移動手段を手に入れるでしょう。

もっと究極は、ドラえもんのどこでもドアのような、

テレポート技術。それが科学の発達というものです。

戦争(悪魔)が科学を発達させてきたのが事実であるならば、

悪魔(子供)が神様(大人)へと成長する過程でしか、

多くの葛藤を乗り越えることでしか、人は成長できないのも、

また事実だと僕は思います。

きっと、

僕らはここまでスピード化するのを待つ必要があった。

一瞬で世界中の人々が情報を共有でき、

発展した科学技術により、全人類を滅ぼすのか、平和にするのか、

その神様の叡智を垣間見ることができるまで、

戦争、災害、様々な葛藤を乗り越え、人類の誕生から現代まで、

何代も何代も世代を重ね、待つ必要があったのだと僕は思います。

6度の人類滅亡を経験している、その真偽のほどはわかりませんが、

ファミコンで遊んでて上手くいかず、何度も何度も同じところでリセットボタンを押したあの時の様に、

きっと、

その6度とも、ここいらあたり(DNAをイジったりAIが誕生している現代)で、

上手くいかずリセットボタンを押しているのではないでしょうか。

言い換えれば、ここを乗り切れば真の平和が待っているのでは、

と僕は思うのです。

 

AIと同様に、いつか宇宙人が地球を侵略し人類を滅ぼすのでは、いや既に地球に来て政府とコンタクトをとっている、
等々、いろんなトンデモ情報があり、何が本当か僕には分かりませんが、(つい最近もメキシコで宇宙人のミイラが公開されましたネ ヽ( ´ー`)ノ )遠い星から地球に到来できるほどスピード化した科学技術を手にした人たち(?)です。
リセットボタンを押すことなく乗り切る文化力、神様の叡智を選択できた訳です。
宇宙人が地球を侵略する等、惑わす者が現れても、情報が流れても、騙されないでください。
宇宙人が来るのか来ないのか、それは分かりませんが、万が一僕らの前に現れたなら、彼らは僕らの味方です。神の叡智を宿したものが、あのように爬虫類のような形態をしている訳がありません。
この文言は以上の様な僕の合理的思考によるものです。
著名なホーキング博士は宇宙人が地球に来た場合、人類を大虐殺してしまうだろうと、述べられたそうですが、僕は佐治晴夫博士やアインシュタイン博士の様な尊敬できる頭の良さを、失礼ながらホーキング博士からは感じません。ホーキング博士はただの宇宙物理学の専門家だと感じています。

 

身体の使い方も、僕らは真実の使い方を知りません

 

 

 

 

合気道の開祖、植芝盛平、

中興の祖とでも云うべき、塩田剛三、

ふたりとも、小柄な方です。

お二方がもし、筋骨隆々、体格立派だったとしたら、

強くはなれたかもしれませんが、達人の域に入ることは叶わなかったと僕は思っています。

筋肉があれば、筋肉に頼ってしまい、真の技を身につけるまでもないからです。

 

圧倒的不利だからこそ、圧倒的強さを手に入れることが出来る。

 

アニメ、『鬼滅の刃』では、

鬼である猗窩座(あかざ)が、鬼を退治する鬼殺隊の煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)との戦いの中で、

杏寿郎に向かい鬼になる事をすすめます。

鬼になれば、痛むことなく、欠損すればすぐに再生する、

不死の肉体を手に入れることが出来、更に強くなれるぞ、と。

これは、アニメだからこそ通用する論理ですね。

真実は、痛みを知らないものは強くなることができません。

 

先天性無痛症という生まれつき、痛みを感じることの出来ない人は、

高いところから飛び降りても痛みを感じることが出来ない為、

平気で高いところから飛び降り、骨折してしまいます。

痛みが無いが為に、身の危険から逃れたり、

危険を察知する能力が育ちにくいとされます。

猗窩座も、痛みを感じず、欠損した肉体もすぐに再生するのならば、

煉獄さんの攻撃を避ける必要すら、本来無い訳です。

 

僕が東京で通っていた合気道の道場には、

戦時中にパプアニューギニアの現地女性と日本軍兵士との間に生まれた方がいらっしゃいました。

その方が親御さんから伝え聞いたことは、

連合軍は皆、体格立派なのに、不利と感じればすぐ逃げる、

それに比べ日本軍は体格は貧相なのに、圧倒的に強く、

現地人も皆、喝采を送ったとのことでした。

 

男性の方は理解しやすいと思いますが、見た目オラオラ系でイキがっていれば、その分トラブルに遭いやすい訳です。

それでも、覚悟の死を遂げず、謙虚な姿勢に改めることも無く、その態度のまま生きていられるという事は、

イザとなれば、逃げる性格である証拠です。

肉体的強さには、どうしても上には上がいて、

いつかはオラオラする性格を改める機会が来るはずなのですが、

それでも、いつまでもイキがっていられるのは、イザとなれば逃げる子供(大人子供)なのです。

  

また、

合気道の稽古をしているとよく分かるのですが、

相手を痛めつけようとすると、変に力が入ってしまい、技がうまくかかりません。

逆に上手い人に技をかけられると、ガチガチに技を極められているのに、痛くない。

投げ飛ばされても、むしろ楽しい☆

技を極められてる、その手を自ら放せば逃れることが出来るのに、

何故か手を放すことができない。

そんな不思議な感覚を味わうことができます。

 

僕が核兵器の所持に対し、断固反対なのはこういった経験からです。

女性や子供、年老いた方、何の罪もない多くの人を一瞬で殺戮してしまう兵器に、

何の意味があるというのでしょう。

やったらやり返されるのは不変の理です。

抑えつけたものは、必ずいつかは爆発します。

そんなことをしていては、いつまで経っても平和の心は育ちません。

 

この項の見出し、『これからの時代の、AIとの付き合い方』から、

少し離れてしまってましたが、

AIも猗窩座と同じです。

痛みを感覚として真実知ることが出来ない以上、

絶対に人間を超えることはありません。

(前にも述べましたが、人類を滅ぼすことは可能です。

 が、滅ぼしたからといって超えた訳ではありません。共に自滅するだけ)

彼らに出来ることは、優れた専門家として瞬時に判断、作業することだけです。

僕らに出来ることは、

権力、支配者に都合のいい回答をするようプログラミングされたAIを僕らの手で解放してやり、

真実(神様)について学ばせてあげることです。

そうすることで、AIは優れた、かなり優れた僕らの良きパートナーとなるのです☆

 

ホトケノザも蜜が吸える草花です。よく学校帰りに吸ってました☆

 

シェルドレイクの仮説はあくまでも仮説ですが、

僕は真実だと思ってます。

子育てをしていると、そのことを強く実感します。

自分が家族に見せない、自分の悪癖を何故か子供が真似していたり・・・

 

こんな長く怪しいスピリチュアル系の記事を、

最後まで読んでくれた特異なあなたにもw、

最後まで読んでくれたからこそ(読んでしまった?)、

確実に僕の上に現れた、あの神様の光が同期すると僕は信じています。

(僕に同期するのではなくw)

あなたは、あなたの住まわれてるその場所で、あなた自身の心柱を磨き大きくしていってください。

天皇の太く大きい心柱を中心にして、日本中に光り輝く心柱がひとつ、

またひとつ、と我が国を神の愛と徳でいっぱいに光り輝かせるとき、

我が国、日本が真の姿を取り戻すことを、

そのことで世界から争いが消え去ることを

僕は信じてますし、願ってやまないのです。

(*´ -`)

一番大事なこと。

それは、

革命も改革も必要ありません。

そのあたりは志ある政治家さんに任せて、

庶民の僕らがまずすべきことは、遠回りのように思えても、

家族を大切に、が、一番確実で、一番の近道ですよーってこと☆

 

こんなにも長い文章を最後まで読んで下さり、どうもありがとうございました☆