情報とは

 

 

 

  

かなちゃん、みのり、ひかる、
そして
おうたのだいすきなキミに

 

 

 

 

もくじ

情報とは

 

 

僕が記事を書くときにいつも流すメロディです
よろしければ、あなたも聴きながら読んでください

 

 

情報とは所詮、伝言ゲームの成れの果てです。

かつ、

チェリーピッキング(自分に有利なデータだけ抽出する行為)されていない情報など、

過去にも、いつの時代にも、世界中どこを探してもこの世に存在しません。

 

生まれたてのヒヨコが一番最初に目にしたものを

親だと認識してしまうかのように、

僕らは思い込みの世界(共同幻想)を生きているに過ぎません。

良く言えば教育、悪く言えば洗脳された頭で見る世界は、

まるで刷り込まれたヒヨコの如く、

真実ではないものを真実と認識したり、善が悪、悪が善と妄想顛倒(もうそうてんどう)したり、

色眼鏡を通した、フィルター越しの世界です。

その刷り込まれたヒヨコ達が発する情報でカタチ作られたこの世界は、

果たして真実の世界なのでしょうか。

完璧ではない親(刷り込まれた親)、大人達に育てられた僕らに、

完璧ではない親、大人達を完璧だと思い込んでいた私達に、

何が正しくて、

誰が間違えているなどと、はたして判断など出来るのでしょうか。

常識とされるもの、誰もが、世界中が正しいとするもの、

そもそもその根幹(情報の捉え方)が間違えてるからこそ、

いつまで経っても争い、諍いがこの世から無くならないのでは、

僕はそう思っています。

 

根幹とは、

「物事の重要な部分や中心となる要素、根元や中心、その存在があって初めて成り立つもの」

という意味をもちますが、

この記事では、私達の生きる根幹を成すであろう情報について、

語っていきたいと思います。

 

古来より東洋思想(陰陽論)においては、時間は縦に流れ、空間は横に拡がります。火(ひ)は縦に燃え上がり、水(み)は横へと流れゆく。エネルギーを伝達するボース粒子は縦に。物体を構成するフェルミ粒子は横に。



といった具合に、この記事内、陽の性質のものは、陰の性質のものはで分類、表現しています。

ここで質問です☆情報とデータはそれぞれ、陰(空間)と陽(時間)、どちらに分類されると思いますか? (^-^) 安心してください。僕は真実の正解を知らないですw

正解、正しさなど、時の流れが、いつの日か、遠く地の果てへと追いやります。人類の始まりより、覆ることのない正解など果たして存在したでしょうか。私達がこれまでしてきたこと、僕らがこれからできることは、その覆ることのない正解を探し求める為の、永遠と無限に少しでも近づく為の、データの読み取り、情報の選択です。そこに正解など存在しません。山はどこから登っても、いつかは誰もが頂上に辿り着けるのと同じですネ(あきらめさえしなければ☆)。 

僕が記事内にて、「情報とは」「言葉とは」なんて断定する形で書いていますが、あくまでも僕の哲学的妄想の範疇であること、決してこれが正解だと断定しているわけではないこと、この記事は、あなたが頂上に辿り着く為の参考程度にしかならず、実際に山を登るのはあなた自身であることに、ご留意ください。    

永遠に変わらないもの。古より遥か未来へ、変わらず正しいもの、それが何かを求め、学ぶことこそが、私達の生きる意味であり、求め続けたその先に、人類は無限(フリーエネルギー=真の平安)を手に入れることが出来るのだと、僕は思っています。

ちなみに僕は若い頃、反社組織Yを日本最大のものにしたT、そのTと行動を共にした方に話を聞きに行ってます。他に某カルト組織Oの設立者Aがあのテロを起こす以前、Aのカバン持ちをしていた方(事件が起こった時点では脱会しておられた)にも会って話を聞いていますし、これとは別に(記述するのを一番躊躇するのがココですが)世界でも報道されたあの事件、単独犯とされているあの事件(何十年も前の事件)の犯人と関りのある人物にも話を聞きに行っています。(家族ができて以来、そういった活動は一切行っていないですが)情報の真偽を確かめる目は、そこいらの新聞記者には負けません。あわせて当ブログ内、『真実とは』をお読み頂ければ、僕が、両方とコンタクトをとり、この世の真偽を確かめようとしていることを分かって頂ける筈です。
勝手ながら、これがこの記事の信頼性をカタチ作る根拠としたく思います。

 

情報をカタチ作る根幹、言葉とは

 

はじめにことばありき

聖書の有名な言葉ですね。

僕は子供の頃、聖書のこの有名な言葉を耳にした時、何故、森羅万象のはじまりが、

もっと神秘的なものではなく、「言葉」といったありふれたものなのだろう、

と感じました。

なんだろう、、、

あらゆるものすべての始まりって、

もっとキラキラ☆してて、壮大で、神秘的、幻想的、、、なものなんじゃ。。。

子供の頃の僕はそう思ったものです。

うまく言葉にできないですがwww

みなさんは初めてこの言葉を耳にした時、どう思いましたか? (^-^)

 

AIの創ってくれたビッグバン想像図

  

そして我が国

日本の神話、『古事記』の冒頭、

 

是に天神諸の命以ちて、
(ここにあまつかみもろもろのみこともちて)

伊邪那岐
(いざなぎのみこと

伊邪那美
(いざなみのみこと

二柱の神に、是のただよへる国を修理り固め成せと詔りごちて、
(ふたはしらのかみにこのただよへるくにをつくりかためなせとのりごちて)

天沼矛を賜ひて、言依さし賜ひき。
(あめのぬぼこをたまひてことよさしたまひき)

故、二柱の神、
(かれふたはしらのかみ)

天浮橋に立たして、其の沼矛を指し下ろして画きたまへば、
(あめのうきはしにたたしてそのぬぼこをさしおろしてかきたまへば)

塩こをろこをろに画き鳴して、引き上げたまふ時に、
(しほこをろこほろにかきなしてひきあげたまふときに)

其の矛の末より垂落る塩、累積もりて島と成る。
(そのほこのさきよりしたたるしほつもりてしまとなる)

是れ淤能碁呂島なり。
(これおのごろしまなり)

『古事記』より

 

思春期真っ只中の中学生であれば、

「あめのぬぼこって男のアレだろ?」

「ぬぼこのさきからしたたったやつってアレだろ?」

「これって結局、男と女がやるアレだろ?」

となりがちですが、

ヽ( ´ー`)ノ

それも間違いではないでしょうけど、部分にすぎません。

大きな意味では、

これが僕達人類が生まれてきた意味です。

 

伊邪那岐命と伊邪那美命

 

古事記の引用、黒の太字部分、

命以」は「お言葉で」、「言依」は「言葉による委任」を意味します。

古事記を最初から読み進めると分かるように、

当初、伊邪那岐、伊邪那美、と記述されていたものが、

天命をもって、この星に降り立つ時、

伊邪那岐、伊邪那美、と変化し記述されています。

神 ⇒ 命

神がみこと(みことことことばこと)もちて。

神々が天命をもってこの星に生まれる。

神々の澄んだ想いが、ことばとなってこの星に天降るのです。

 

西洋だけでなく、我が国においても、

はじまりに、

根幹部分に、ことばが厳然と存在しているのがわかりますね。

 

そういえば、ひとがモノ想う時に頭の中で響くコノ言葉。僕は子供の頃、コノ言葉たちはどこで鳴り響いているのか、不思議で不思議でたまりませんでした。耳から聞こえてくる親や友達、先生の言葉なんかは、耳の鼓膜を通して響き、脳で解釈してるのはなんとなく理解できても、この頭に浮かぶ自分の思考というものは、どこで鳴り響いているのか、はたまた、他人に聞こえたりしないものなのか、不安でたまらなかったのを覚えています。友達に、「僕が今、考えてること、聞こえた?」なんてたずねても、「なに言ってんの?」なんて答えが返ってきたりなんかして。それが、本当は聞こえてるのに、僕を気遣って、分からないフリをしての「なに言ってんの?」なのか、本当に聞こえてなくて、コイツ、イカレてしまわれたか、の、「なに言ってんの?」なのか、確かめようもないことに気づき、苦悩する日々を過ごしていました。ボクは病んでいたのでしょうか
ヽ( ´ー`)ノ
あなたは子供の頃抱いたそんな不思議、疑問が、大人になった今、いつの間にか当たり前になってはいないですか?
(^-^)

 

データと情報

 

DNA植物、動物の存在をカタチ作るように、

言葉(想い)によってカタチ作られたのが僕ら人間です。

この言葉によってあらゆる事象(戦争も平和も。災害も科学の進歩も)が、カタチ作られるのです。

 

僕が、何故そう考えるか。

 

他の記事でも紹介したことがありますが、脳科学者養老孟司さんが紹介されていた実験、

寝ている人の首に冷たい氷を当てると、

瞬間、

その人はその氷を当てられた感覚にまつわる夢をみる(つくりあげる)といいます。

(当然、この実験の被験者は、氷をあてられた瞬間目覚めます)

被験者の見ていた夢の内容は、

舞台は中世ヨーロッパ、主人公(被験者)は上流階級の者、

民衆とのいざこざ、反乱、そして捕らえられ、裁判、という長い物語を演じたあげく、

断頭台におくられ、断頭台の刃が首に落ちた、

その瞬間に目が覚めたのだとか。

(氷を首に当てられた感覚を、断頭台の刃が首に落ちたかの如き痛みと認識し、目覚める、

 その刹那に、時の流れを越え、

 これだけのながい物語を脳はつくりあげるのだから驚きですネ)

 

 

たとえば、

寝ている人の鼻の近くに、とてもいい香りを放つリンゴを近づけたとします。

その人は、リンゴにまつわるエピソードのをみます。

作り上げる夢は、人それぞれ千差万別です。

苦悩する日々をおくるひとは、毒リンゴを食べる夢をみるかもしれません。

平安な暮らしをしている方は、リンゴが好きだった今は亡き愛する人の夢を

カタチ作るでしょう。

感覚を元データとして、

自身で夢の世界を型作りながら(シナリオ作成?)産まれおち、

オギャーと言葉を放った瞬間、

夢の物語のシナリオを読み始めた瞬間、

時が流れ出し、

物語り

又再び、その感覚の元へとかえる(目覚める)のです。

 

もしかしたら、

あなたが今生きてる、その穏やかな日々は、

真実は夢であり、

あなたが寝ているその隣で、お父さん、お母さんが、愛する人が、頭を撫でてくれている

その感覚があなたの今のその人生をカタチ作っているのかもしれませんネ。

 

 

そう。

僕らの今生きているこの人生も、

この感覚(データ)夢(情報)の関係と同じ。

 

いったん、あなたが目にしている画面から目をそらし、部屋を見まわしてみてください。

目にうつるカーテン。

天井。

こたつ。

本棚。

エアコン。

これら、すべて情報です。

これまで人類が行ってきた思い込みを捨ててみましょう。

新聞や書籍に書かれた文字の羅列、それだけが情報ではありません。

定義を変えてみるのです。

 

珈琲の入ったコップ。

それも只の物質のようにみえて、情報です。

ミクロ、ナノ、ピコ、、、

僕らが更に小さく小さくなって、そのコップを観察すれば、

分子、原子、素粒子、、、と

粒子と粒子の間はまるで宇宙ように空間だらけです。

本来何も存在しないところに、

コーヒーカップを形作っているのはあなた。

空間だらけのコップを崩壊させず、そこに存在せしめているのはあなた。

ひとつの感覚から作り上げる夢が、ひとそれぞれ、千差万別なことと同じで、

他の人があなたと同じ形のコーヒーカップを見ているかどうかなんて、

証明しようがありません。

目の前にあるコーヒーカップは、

いわば

冷たい氷の感覚(データ・想い)が作り出した、ひとつの物語(情報)と同じ。

 

『はじめにことばありき』

のこの言葉(想い)が、エネルギーとなり、

森羅万象、この世のあらゆる事象をホログラムのように形作っている。

ゆえに、

僕らひとりひとりの放つ言葉が、

この世の争い、天変地異さえ起こしている、それが真実の姿なのだと、僕は思っています。

 

言葉がエネルギーだとする考えは、言葉ひとつで人が傷ついたり、元気づけられたりする、そのことでなんとなく理解できますネ。それが情報(ニュースや書物など)となり空間を越え、この世の悲惨を伝えることで、このままではいけないと愛の心を奮い立たせ、時代を越え、教えとして僕らを勇気づけているのです。

 

量子力学からみる情報

 

分子、原子、素粒子、とミクロな世界の言葉が出てきたので、

ここで量子力学についてお話してみたいと思います。

 

量子力学とは、原子や電子、光子(光)などの、

とても小さなものがどう動くかを研究する学問です。

僕らが普段目にするこのマクロな世界は、

ニュートンさんで有名な万有引力の法則、

ガリレオ・ガリレイさんが発見した慣性の法則、振り子の等時性、

などといった物理学で説明がついたのですが、

原子や電子、光子といったミクロな世界は不思議な動きがいっぱいで、

今までの物理学では説明がつかなくなりました。

そこに新しく出てきたのが、この「量子力学」です。

(ニュートンさん達の発見は「古典力学」と呼ばれるように)

 

 

量子力学の不思議な現象

 

重ね合わせの原理

  

量子力学では、粒子は複数の異なる状態を同時に持つ、とされます。

これを「重ね合わせ」と言います。

例えば、ひとつのコインが置いてあるとして。

そのコインが表の状態で置いてあるのか、裏の状態で置いてあるのか、

本来なら必ずどちらかのハズ、なのですが、

だれかがソレを確認するまで、どちらでもある、

表も裏も正解☆

とするのが、量子力学です。

 

厳密にいうと、コインの例はあくまでも理解しやすくするための「たとえ」であり、コインのようなマクロな存在にとっては、観測するまで表も裏も正解などとすることはありえず、必ずどちらかの状態にあり、私達が知らないだけ、とされます。一方、ミクロな量子は、本質的に両方の状態が同時に存在し、それどころか、「表か裏か」のような単純なものではなく、複数の状態が同時にあり、それらが干渉しあっていて、観測という行為(知ろうとする行為)により、ひとつの状態に「収縮」するのだ、と、書いている僕が何がなんやら分からなくなってきます。。。

 

一例をあげると、電子には上向きスピンと、下向きスピンの性質があるのですが、

観測をするまでは上向きスピンと、下向きスピンの性質を同時に持つ、

「重ね合わせ」の状態にあります。

観測をすることで、どちらかに確定し、片方の性質は収縮(消えてどちらか一方に最適化)します。

(いわば、見つけられることで、「あ、見つかっちゃった☆」、といった風に正体がどちらかひとつにしぼられる感じでしょうか)

 

このような現象は僕らのマクロな日常生活では起こりませんが、

ミクロの世界では普通に起こる現象のようです。

 

この確定こそが冒頭にて述べました、情報化がもつ性質「伝言ゲーム」です。

(どちらかに確定することで有限となる、言い換えれば処理能力がこの星に最適化される)

 

「伝言ゲーム」と書くと、情報が間違った方へ行く意味しかないので、どうしてもネガティブに捉えられるかもしれません。僕も当初はこの記事内にてこの重ね合わせの性質において起こる確定を「劣化」と表現していたのですが、それは読んでくれる人を間違ったほうへ導きかねないと思い、全て「最適化」と書き換えました。能力が落ちれば「劣化」ですが、必要あっての能力ダウンであれば、それは「最適化」。神々が天降ったのも劣化したわけではなく、おおいなる慈愛の想いから、ですね。良い一面も悪い一面に捉えうる。ここを勘違いして欲しくないので、書き残しておきます。

 

重ね合わせの状態にある粒子を、

どちらかに決めないことで無限の可能性を持たせる、

この重ね合わせの性質を利用した最新の機器が、量子コンピューターです。

これまでのコンピューターは「0」と「1」、二つの数字だけを使って情報を処理していたのですが、

量子コンピューターは量子力学の不思議な性質を利用し、

「0」か「1」か、どちらかに確定しないことで(重ね合わせの状態)、

これまでの古典コンピューターを遥かに超えた処理能力をもたせることを可能にし、

更に、下に紹介する「量子もつれ」の性質を合わせて利用することで、

情報処理の能力が、倍々となり、

無限の可能性を有することができるとされます。

 

  

粒子と波の二重性

 

たとえば、光。

この光は、粒のように振る舞うだけでなく、同時に、波のようにも振る舞うのだとか。

これを粒子と波の二重性と言います。

これのどこが不思議なのかというと、観測するまでは、どちらの性質も保持しているのに、

誰かが観測することで、どちらかに確定してしまうからです。

 

光は昔から波の性質を持つものだと思われていましたが、

実験によって光は粒(光子)としても振る舞うことがわかりました。

同時にふたつの性質を持っているというのですネ。

しかも、

僕らが、

「光って、本当は波なのか、粒なのか、どっちなんだろう?」

と実験装置を用いて観測することで、

どちらか一方の性質に確定されてしまうのです。

 

この確定こそが冒頭にて述べました情報化がもつ性質「チェリーピッキング」です。

 

「光の二重性」と「重ね合わせ」の概念は、似通ってはいますが異なるものです。光の二重性は波動と粒子という異なる性質の共存を示しますが、重ね合わせは同じ性質の異なる状態の共存(たとえば電子の上向きスピンと下向きスピン)を示します。 「光の二重性」においては、たとえば粒子の性質が観測されたとしても、もう片方の波の性質が消えてしまう訳ではなく、共存し、「重ね合わせ」においては、たとえば観測により、電子の上向きスピンと下向きスピンという同じ性質のどちらか一方が観測された場合、もう片方は共存することなく、収縮(片方の状態に最適化)してしまいます。

 

 

量子もつれ

 

2つ以上の粒子が、強く関係し合った状態になることを「量子もつれ」と言います。

このもつれた状態では、一方の粒子に何か変化が起こると、空間的に離れていても、もう一方も瞬時に影響を受けるのです。

しかも、この影響は、地球に存在する粒子と、地球から何億光年離れた宇宙の先の粒子まで、

どんなに離れていても瞬間的に伝わるというのだから不思議ですネ。

 

この不思議を人の世に起こるもので分かりやすくいうと、

「虫のしらせ」でしょうか。

縁ある人の身に何か起こった場合、遠く離れていても、

直感的に知らせが届いたりする、あれです。

 

この量子もつれについて簡単に理解する為に、

よく使われる、わかりやすい例が手袋のたとえです。

左右一組の手袋をそれぞれ箱に入れ、片方の箱を沖縄、もう片方を北海道に置いたとします。

(箱に入れる前は、右手用の手袋、左手用の手袋、どちらの性質も有する、重ね合わせの状態)

沖縄の箱を開け、それが左手用の手袋と確定した瞬間、

北海道の箱のものは、右手用の手袋と確定しますネ。

この量子もつれの性質は複数の粒子においても相関させることができるので、

量子コンピューターにおいては、

ひとつの粒子の状態が確定した際、

他の複数の状態も瞬時に確定される、この量子もつれの性質を利用し、

計算効率を飛躍的に向上させることができる、といいます。

他にこの性質を用いて、発展を試みようと研究が盛んに行われているのが、

量子テレポートの技術です。

今はまだ物質そのもののテレポートは不可能とされ、

情報をテレポートさせるだけ、とのことですが、

未来においては必ずや達成される技術でしょう☆

 

以上、簡単に量子力学について説明しつつ、

情報との関りについて解説も試みました。

次の項では、科学とは真反対の、神話の観点から情報を取り上げてみたいと思います。

 

神話からみる情報

 

神話という観点から情報を読み解く、

その前に、

はるか昔より、言葉が力を宿すと云われてきた、我が国の言語、

日本語について、少しばかり、お話してみたいと思います。

 

言葉(情報)が力を持つ国、言霊の国、日本

 

「敷島の大和の国は言霊の幸(さき)はふ国ぞ真幸(まさき)くありこそ」

万葉集、柿本人麻呂の歌です。

遣唐使となり旅立つ友の無事を祈り、歌われました。

日本は言霊(ことだま)、言葉が力を持つ国なのだ、だから私は祈ります、無事でいて欲しい、と。

 

 

このように、

古来より日本では、言葉が幸せをもたらす国であると云われてきました。

良いことばかりでなく、

負の言葉を口にして、災いを招いてはいけない、と、

そういった言葉を用いないように気を配ったりもしますよね。

 

「葦原(あしはら)の瑞穂(みずほ)の国は神(かむ)ながら

 言挙(ことあげ)せぬ国然れども言挙ぞ我がする

 言幸(ことさき)くま幸(さき)くませとつつみなく

 幸くいまさば荒磯波(ありそなみ)ありても見むと

 百重波千重波(ももへなみちへなみ)しきに言挙す我は言挙す我は」

同じく、柿本人麻呂の歌です。

「神ながら」とはキリスト教風にいえば、「御心のまま」でしょうか。

災難に遭うのも、無事で到着できるのも、全部神様がうまくやってくれるのだから、

心配する必要はない、

そうは言っても、心配になるのが人情ですよね。

すぐには手助けせず、自分で学ぶまで、黙って見守る。

それが「神意」、すべて「御心」なのはわかってはいても、

それでも心配な気持ちを口にしてしまう、旅の無事を願ってしまう、

「神ながら」に反し、「言挙(ことあげ)」してしまう。

「言挙せぬ国」とわかっていても、

「言挙す我は言挙す我は」、友の為に。

 

万葉のむかしにも、いかに言葉が大事にされていたのかが分かりますネ。

 

言葉を構成する「あいうえお」は神々の名

 

次に、

何故、我が国において、言葉が力を持つとされるのか、

お話してみたいと思います。

 

まず、

外国語と日本語のおおまかな違いとして、

あ、か、さ、た、な・・・、と、

日本語は母音(あいうえお)で終わる単語が多く、

外国語は子音で終わる単語が多いようです。

また、母音と子音の違いについては、

母音は発声時に口や喉で息の流れがほとんど妨げられず、

自然に響く音です。この為、「あいうえお」は、自然界の音に近いとされるのですね。

一方、子音は舌や唇、歯などで息の流れを遮断などして出す音であり、

母音ほど自然な音とはなりません。

この母音と子音で構成された言葉。

みなさんご存じのように、言語は左脳で処理されるのですが、

母音中心の日本語話者は、母音も子音も左脳で処理し、

子音中心の外国語話者は、子音を左脳、母音を右脳、と別れているのだとか。

母音に近い自然な響きの虫の声を、日本人だけが「声」と認識し、

左脳で処理するのはこのためだそうです。

(厳密にいえば、他にポリネシア人も)

言い換えれば、

神々の作られた、この大自然と同じ響きを発するのが我が国の言語なのですネ。

 

ポリネシア人により構成されるパラオといえば、大の親日国。パラオの国旗は日本の日の丸によく似た国旗で、親日国パラオが日章旗に似せたとする説もありますが、デザインした方はこれを否定しているようです。この真相を確かめる為、日本の大学教授がインタビューに行かれた経緯はWikiに書かれてあり興味深いです。インタビューされるとなれば、その期日までに国として国家としての威信をかけ、様々な思惑がデザインした方に集まったであろうことは、想像に難くありませんが、本当にデザインが偶然似たのかもしれませんし、真実は「わからない」が正解、でしょう。

 

大自然と同じ響きである母音、

あ い う え お

神道では、日本語のこの一音一音が神々の名であり、一音一音に、働きがあると説きます。

「あ」には「あ」のお仕事(周波数)

「み」には「み」のお仕事(周波数)

「ひ」には「ひ」のお仕事(周波数)があって、

五十音それぞれにさまざまな働きが与えられていると云います。

 

合気道の稽古においても、たとえば特定の動きにおいて、「す」と発しながら技をかける様に教わります

 

一音一音(神々)を繫ぎ合わせることで、ことば(みこと)となり、

天降り(縦)、

国づくり(横)のお仕事をするのです。

は縦に燃え上がり、は横に流れゆく。

縦がのはたらき、

横がのはたらき、を表すだけでなく、

縦のはたらきの中にも、陰と陽のはたらきがあり、

横のはたらきの中にも、陰と陽のはたらきは存在します。

 

中島みゆきさんの歌を、ミスチルの桜井さんがカバーされたもの

  

は縦のはたらき、

は横のはたらき、

縦と横、調和しながら、よりよい方へと昇華してゆく。

これが火(か)水(み)の御姿である、

とするのが神道の基本的な考え方です。

 

あなたが「あ」と発する時、

その「あ」の響きは、

「あ」のお仕事をして、この星を駆け巡ります。

いわば周波数となってはたらくのですね。

 

き、と発音するように、

(「ひ」はヒトのひ「き」は来)

」に濁点(だくてん、言い換えれば濁り)が付き、「」となることからもわかるように、

発せられた「あ」の響きはお仕事のため、神々の軽やかな世界から、この星に降り立つとき、

濁り(重力(縦))を身に纏います。(重たい身体、それによる、苛立ち、死への恐れ)

神々命(みこと)となるのです。

これが情報化の根幹であり、

縦に天降り、情報化(ホログラム化)された命(みこと)が、

横にはたらいて(お仕事)ゆく時、

このことが、神話に云う国造りの根幹をなすものなのです。

 

更に、ここで、

無理矢理に量子力学に重ね合わせて論じれば、

他言語に比べ、言葉の響きを洗練化、単純化することで、

一音一音(神々)を「もつれ」やすくさせているのが、

日本語なのだと、僕は考えています。

 

だからこそ、我が国の言葉は力を持つのではないでしょうか。

(結論の出し方が強引な感は否めないネ (*´ -`) )

 

日本国土は世界の雛型

 

日本国土の形は、世界の雛型である、

とは、合気道の開祖、植芝盛平と親交の深かった、大本教の実質的教祖である出口王仁三郎の理論です。

ぜひみなさんも、日本地図と世界地図を見比べてみてください。

北海道の形と、南米の形、(出口王仁三郎は北海道と北米を相似させています)

九州の形と、アフリカの形、

四国とオーストラリア、

富士山のあるあたりにエベレスト、

琵琶湖のある辺りに、カスピ海、

人類発祥の地がアフリカの南あたりとされることと、

我が国にて天孫降臨の地が宮崎とされること。

なんとなく相似(フラクタル)してはいないでしょうか。

 

この説でいくと、アラビア半島(紀伊半島)とアフリカ大陸(九州)の間の紅海の中に、無理矢理オーストラリア大陸が入り込んでしまうことになりますが…

   

伊邪那岐命と伊邪那美命が天の浮橋に立ち、天沼矛(あめのぬぼこ)で混沌とした大地をかきまわし、

その矛の先から滴り落ちたしずくが積もってできた最初の島は、「淤能碁呂島(おのごろじま)」とされ、

それは現在の淡路島あたりとされていますが、

僕は、

この説にあてはめると、淡路島のあるあたりは我が国、日本だと思っています。

(ぐにゃーと世界地図を曲げながら、日本国土に相似させてゆくと、

 なんとなく似てくると思うのだけど (*´ -`) )

オーストラリアの上にある日本を、オーストラリア大陸と一緒に無理矢理、紅海に押し詰めた形となり、こじつけもこじつけ、トンデモ学説と言われても仕方ないですが、これが僕の持論です。

 

神話上のこの淤能碁呂島を日本の雛形とする論は、調べても出てきませんでした。なので間違いかもしれません。だとしても僕の持論であることに変わりはありません。どのみち、この世に真の科学を知るものなど一人として存在しないのだから。
きっとアインシュタイン博士がこの考えを耳にしたなら、否定などせず、「面白いね☆」と興味を持ってくれたであろうと僕は思っています。

 

たとえトンデモだったとしても、

これで、神話にて淡路島が国造りのはじまり、とされる説に「筋が通った」のではないでしょうか。

 

僕は学生時、人類発祥の地はエチオピアと習ったのですが、現在はボツワナ北部とされているようです

 

僕はこの理論の存在を知る前の、子供の頃から、日本のカタチは世界の形と似てるなぁ、

と思っていたので、

子供が誰に教えられることなく、そう感じるのだから、

真実に違いない。誰かに非科学と言われようが勝手にそう思っています。 ヽ( ´ー`)ノ

 

正しさなど、常に、うつろいゆくもの。真実はいつも未来に存在します。創造性のひとかけらも持たない多くの科学者よりも、僕は未来を生きる子供たちにこそ、耳をかたむけたい。

 

日本語は、大自然の響きに似せ、洗練して形作ったものであり、

日本国土は、世界の雛型なのであると。

 

 

我が国の技術は何故こうも洗練されたものなのか。

我が国の文化がここまで世界に称賛されるのはどうしてなのか。

みなさんは考えられたことがあるでしょうか。

僕らは、あまりに自分達のことを卑下しすぎています。卑屈になり過ぎているのです。

もちろん、あの戦争時、マイナスな面もあったでしょう。

でも本当にそれだけでしょうか。

欧米列強は当時、世界中に植民地を持ち、その土地にもともと住んでいた人達を、

奴隷の様に扱う、それを解放してくれたのが日本なのだと、

そのおかげで独立できたのだと、称賛する国々もあるというのに、

何故僕らは、そういった情報は耳に入れようとしないのでしょう。

あまりに偏り過ぎている。

申し訳なさそうに、背中を丸め過ぎているのです。

もちろん傲慢に反り返るのは良くないですが、

姿勢が悪いから、入ってくる情報もネガティブなものばかり。

日本が落ちぶれていく、その根本原因はココにあると僕は思っています。

 

当然、国という単位で動けば、たくさんの人が集まっての組織なのだから、

誠実でない人も当然います。

負の動きも一部あったでしょう。

ただ、何度も言うように、正の動きだってあったはずです。

そこを、もっと皆で口にだすべきじゃないでしょうか。

メディアが情報として流し、教育者が教育すべきなのです。

反省ばかりが正しい情報、正しい教育ではないと僕は思ってます。

 

我が国の歴史に関する情報で、僕が信頼する情報源は小名木善行さんです。情報として正しいとか、皆が信頼すべき、と断言してる訳ではなく、「僕が信頼する方」としていることに、ご留意ください

 

戦中のナショナリズムの嵐の中でなされた教育では、

確かに偏ったものになるのかもしれません。

それが間違いとは言い切れない。

けれど、

戦後、戦勝国が日本に行った公職追放

まともな指導者、教育者は追いやられ、

その空いたポジションに入り込んだ連中がどういった者達であったか。

僕らはそれを、よくよく考えねばなりません。

戦後すべての問題はここに集約されるといっても過言ではないでしょう。

僕らの親も、そのまた親も、

僕達も、

その者達による教育(洗脳)を受けている。

一番大事な背骨(中心)を奪われたまま、なのです。

間違った情報を発する、そこが問題なのではなく、

情報を発する主体が自国になくては、失敗することも正すこともできない、

そのことが大問題なのだと、僕は思います。

 

自分をまず愛さなければ、人を真に愛すことはできない。

と云われるように、

我が国の良さを知らなければ、他国の良さを真に認めることは出来ません。

(私は偉いな)

(僕はよくがんばってる)

と自分を認める行為は誰もが心の内で行いますネ。

それを外に向かって口にすると、

「俺は偉い」

「私は頑張ってる」

と、たちまち自己中な発言となりがちで、他者との軋轢をうみます。

それと同じで、

松下幸之助さんも言われたように、

我が国の伝統文化への深い理解を皆でまず行い、

その次に、

他国の文化への敬意を持つ。

国内にて自国を愛する気持ちを育て、海外に向かい他国を尊重する気持ちを発信する。

そうであってこその「和の国」です。

 

人を愛す、まずそれを先に行うことは、そんなに悪いことではないんじゃ・・・

と思いがちですが、

自分をないがしろにし、他者を優先することは、犠牲思考となりがちです。

(あの人は偉いな)

(この人すごいよな、それに比べ・・・)

なんて自分の心の中で他者と比べていると、気分も下がってしまいます。

他者を褒める時は、心の内で行わず、

「あなた偉いね」

「キミ、がんばってるネ」

そういって口にだすべきなのです。

それに自分よりも先に他者を優先することは、

他者の増長を生みやすく(かえって相手を自己中にしてしまう)、

また他者よりの侮りも受けがち(都合のいい存在とされる)で、

結果、誰の為にもならないことがほとんどです。

 

このように、内と外、逆に行うように教育(洗脳)されたのが、

我が国の現状ではないでしょうか。

自国の素晴らしさを教えず、自虐的国家観を植え付け、

自国民に(私は尊い)と教育せず、

他国の「俺は偉い」をペコペコ受け入れてばかり。

自国民に(私達は悪者で、あのひとが偉かった)と、

自虐的にそればかり教育するから、子供達が自虐的に育つのです。

 

「神話を忘れた民族は滅びる」という有名な言葉がありますが、

神話を子供達に、しっかりと伝えることで、

日本の心、日本の中心を取り戻すのです。

 

これは決して、排他的ナショナリズムではありません。

外に出すから排他的になります。

自国の素晴らしさは内に秘め、(国内だけで語り合う、教え合う)

秘めて、

秘めて、

それでもあふれだしてこそ本物となるのではないでしょうか。(感化)

 

精神的に幼いひとたちがよく行う、弱い立場の店員さんを呼びつけて、

示威的に怒鳴りつける行動。

幼い国家が行う示威目的の軍事訓練。

本当に強ければ、示威行動など無用なのです。

いざ、

という時に皆の為に悪を糺さず、

いざ、

を、おのれ自ら演出し、立場の弱い人を痛めつける、

口だけ番長。 (*´ -`)

我が国は決してそのような国ではなかったはずです。

このようなことをSNS等で口にすれば、

「お前はあの戦争を賛美するのか」と、たちまち批判の嵐ですね。

 

これとは逆に、今起こっている移民問題。

この問題にて、反社会勢力の人間が「悪さをする移民」を懲らしめている動画には、

反社会勢力の人間に対し、称賛のコメントが溢れています。

(いやいや、あんたら反社会勢力をいつも忌み嫌ってただろ)

ヽ( ´ー`)ノ

悪を自分で糺そうとせず、いざ、となれば同じ悪の力を借りて対処する。

糺そうとした人には、後から暴力肯定、戦争賛美だと批判する。

自分で対処しようとしない。強くあろうとしない。

口だけ番長。

ヽ( ´ー`)ノ

それがSNSで批判してる者の正体。

己自らリングに上がることはせず、常にリング外で煽り、批判する。

 

本当の平和というもの、真の人間関係の調和というもの、

について、よく知り、よく考えている人は、

あの戦争を肯定的に捉えようとする情報を、

戦争賛美などと批判することは、絶対にないはずです。

時にケンカをし、悪に対しても、己の芯をブレさせないでいることが、

逆に悪を行うものからの、尊敬をうみ、糺すことも出来る、

そういった面もあることを、常に悪から逃げ回り、人任せにしていると、

知ることができないのです。

 

ジャーボンテイ・デービス選手だけでなく、あのマイクタイソンも井上尚弥選手をリスペクトするひとりです

 

犯罪が多発する街で生まれ育ち、多くの悪行で知られた、

ボクサーのジャーボンテイ・デービス選手。

この動画はジャーボンテイ・デービス選手が、日本が誇る井上尚弥選手をいかに、

リスペクトしているかを物語る動画です。

圧倒的強さ、だけでなく、井上尚弥選手の誠実さあってこそ、

彼の尊敬を生んでいることが、よくわかる動画です。

 

「井上みたいなボクサーがそんなこと言うわけがない」

この一言に、悪行で知られたジャーボンテイ・デービス選手の本当の価値観が滲み出ている、

と言っても過言ではないでしょう。

もう悪行はうんざりだ。

誠実であること、謙虚であること、それが本当の強さなんだと、

井上尚弥選手が教えてくれた。

僕はジャーボンテイ・デービス選手がそう言っているように聞こえるのです。

 

何だか個人的趣味のほうへ話がそれてしまい、ふと気づくと、

この項は「神話からみる情報」が主題でしたね。

大きく主題からハズレたまま長々とすみません。

 

僕がこの項において言いたいのは、

何事も中心(雛型)が必要であるということです。

森羅万象、神様が作られたもの、すべて中心があるからこそ、調和します。

強い、ぶれない、だからこそ誠実でいられる、愛があふれる、尊敬を集める。

昨今話題のWEB3の世界では分散型自律組織DAOというものが存在します。

「特定の管理者を持たず、インターネット上で世界中の人々が協力して運営していく組織形態」

とのことですが、中心のないDAOは上手くいかないでしょう。

尊敬される中心、

誰もが納得する中心、を置かなければ、

ピラミッド型の支配を嫌悪しておきながら、

結局ガチガチのピラミッド型支配を行う共産主義と同じ末路を辿ると思います。

全くと言っていいほどWEB3のことを知らないのに、

DAOのことに口をだして申し訳ないですが、

それが自然の理というものです。

それ以外はすべてうつろいゆくもの。

言い換えれば、自然の理さえ身につければ、専門家に頼らずとも、

あらゆる物事の判断を僕たち自身で出来るようになる、ということです。

 

日本の中心。

世界の中心。

中心が日本であるべきとは言わない。

皆が納得する中心を。

中心がなければ、ものごとが定まらない。

そのことが問題なのです。

 

次の項では、

科学神話

相反するモノのなかに存在する共通項を探り、重ね合わせてみたいと思います。

 

量子力学を神話に『重ね合わせ』てみる

 

神々が命(みこと)として天降り、

天と同じく、この大地を平安なものへと修理固成(しゅりこせい)する、

天孫降臨の物語。

天降る、その動きは、

この星に降り立ち、

修理固成へと向かいはたらく、その空間は、

 

試みに、

量子力学に、神々の、この天降る動きを重ね合わせてみます。

 

粒子(神々)が縦に降り注ぐ(天降る)。

時空という言葉。時間と空間ですね。東洋思想において時間は縦に分類します。

神々の澄んだ想いがデータとして天降る。

その瞬間、時間が流れ始めます。動き(エネルギー)が出てくるのです。

神々のはたらくと決めた、この大地に辿り着いたその刹那に、

横へと波(命・みこと)となり拡がる。

東洋思想において空間は横に分類。

まるでホログラムのように、三次元の情報として、この空間(位置)ではたらくのです。

 

養老孟司さんの紹介された実験にあるように、

現実世界では一瞬、

時間など流れていない、点ともいえる間に、

僕らはあれだけの長いストーリーの夢を見ています。

だというのに、僕らは夢を見ている間、時の流れを感じていますよネ。

時間とは、何なんでしょう。。。

不思議です。

 

あ、

何度も申しますが、

これら考えは、あくまでも僕の哲学的妄想であって、正解ではありません。

科学的にいえば間違いだらけでしょう。

そのことを考慮のうえ、いましばらくお付き合いください。 m(__)m

 

「スピリチュアルなやつらが量子力学を語りたがる理由はこうだ!」なんて風に批判する方々も存在するようですが、アインシュタイン博士がいわれたように、
『宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である』
ですね。

(有名な博士の言葉ですが、ユダヤ教よりもスピノザの神を信仰されたアインシュタイン博士にとって、この翻訳は正確ではないと思います。宗教というより、「信仰」ですね。よって『信仰なき科学は不完全であり、科学なき信仰は盲目である』が適訳ではないでしょうか)

AIのように知識だけを頭に詰め込むならまだしも、クリエイティブな、創造的なお仕事、はたらき、は『神様』とセットでなければうまくいきません。うまくいってるならば、うまくいってるように見えるだけで、それは『よどみに浮ぶうたかた』です

 

「重ね合わせの原理」を神話に重ね合わせてみる

 

粒子が縦に降り注ぐように、

男性の持つ精子が粒であるように、

僕らは皆、男性であるあなたも、女性であるキミもあなたも、

誰もが例外なく、男性の性質を通り道とし、この星へ天降ります。

生まれくる場所、親、を見つけたその刹那に確定

横へとはたらいてゆく。

波は横へとゆらめく様に、

女性の卵子は粒ではありながらも、海の中に確固と存在するものであるかのように、

(光の二重性、粒であり波)

私達は皆、女性であるあなたも、男性であるキミもあなたも、

誰もが例外なく、女性の性質そのものの、この空間、大地ではたらくのです。

(母なる大地といいますネ。要は男性であっても女性性を有し、女性であっても男性性を有している、ということ)

観測により確定された量子の一部の状態が崩壊し、量子コンピューターには使えなくなる、

その如くに、

本来、無限の可能性を秘めた神々であった私達は、

確定した瞬間、

生まれ落ちた瞬間に、

有限を身に纏い、神話に云う修理固成のため、

赤子、幼子、青年、大人へと成長しながら、学び、様々な艱難辛苦を経て、働いてゆきます。

 

古事記において、

火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を御産みになった伊邪那美命は、

下腹部に大火傷を負ってしまい、それが元で亡くなり、

黄泉の国(仏教で云う地獄)へと旅立ちます。

伊邪那美命のことが忘れられない伊邪那岐命は、黄泉の国を訪ねますが、

すでに黄泉の国の食べ物を食してしまい、黄泉の国の住人となってしまったのだと、

伊邪那美命に会うことを断られてしまいます。

それでも会いたい、一緒に葦原中国(仏教で云う現世)に帰りたい、

とすがる伊邪那岐命に対し、

伊邪那美命は、それでは黄泉の国の神に相談してくるから、

それまで扉を開けてはなりませんと、堅く禁じます。

しかし、なかなか返事のないことを心配した伊邪那岐命は、

禁じられたその扉を開けてしまうのでした。。。(あるあるですネ (^-^; )

そこには、蛆を身体中につけた、変わり果てた伊邪那美命の姿が・・・

 

黄泉の国に伊邪那美命をたずねる伊邪那岐命

 

といった感じで、古事記の物語は繰り広げられてゆくのですが、

伊邪那岐命と伊邪那美命は、高天原、葦原中国、黄泉の国を行き来します。

天降った神々が、さらに下界を訪れたり、

須佐之男命においては、黄泉の国の母に会いに行こうと、

その前に高天原の姉を訪ねたりします。

日本の神話世界においては、あくまでも、縦にパラレルしています。

量子力学においては、

この現世空間(横のフィールド)に、僕らの選択により分岐した世界が、

同時にパラレルしているとする説が有力なようですが、(多世界解釈)

確定による収縮がなければ、この現世の窮屈さは理屈にあわない、(現世がエネルギー溢れる世界となり、筋が通らない)

と僕は思います。

窮屈と言うとネガティブな感じに聞こえるかもですが、

人身得難し、と云うように、

有限だからこそ、そこに救いがあるのであって、

神々の世界のように、永遠と無限が混在し、

秘めることが叶わない、願ったことがすぐ叶う、思ったことがすぐに相手に分かってしまう、

そのような世界であっては、

誰かを憎いと、思ったその瞬間に、相手が消えて居なくなってしまったり、

知られたくないことまで、相手に「聞こえて」しまったりして、

経験から学ぶひま(時間・タイムラグ)など存在できません。

  

相手に対して、

自分に対してでさえ、

嘘がつけるからこその救いなのです。

  

自己中心的(嘘がつける状態)であってはそこに発展などないのだと気づき、

自分にできるだけ人の為にはたらくべきなのだと気づく、

その気づくための時間、

有限だからこそ存在する時間、

その時間あってこその反省と学び、

救い(タイムラグ)と愛情、

そのように僕は感じています。

 

だから、

僕の哲学的妄想においては、

パラレルしているのは、あくまでも縦の世界において、であり、

横の世界では、パラレルしてない、

と考えています。

それぞれ、その人その人の魂レベルによって、

住む世界が、天界、現世、地獄、と別れるように、

それぞれの世界にあなたは粒として同時に存在し、

縦にパラレルする。

縦には連続してつながってはいないので、

量子力学において、エネルギーが「とびとび」に観測されるのは、

(陰陽論ではエネルギーは縦)

それが理由だと、僕は考えています。

  

縦の世界に、粒として上へ上へとパラレルし、

霊界、神界、とそれぞれの世界に粒としての自分が存在する。

神々としてのあなた、神(粒)としてのあなた、が存在するのです。

(本当はもっと細かくパラレルしているのでしょうが)

と同時に、それぞれの世界に確定されない、波としての自分も同時存在(ふたりの自分が同時に存在)して、

その波としての自分は守護霊、守護神(波)として、

現世(この世)に生きる私達(粒)を見守っているのだとするのが、

合気道の開祖植芝盛平や、あの笹川良一がメンバーであった「紅卍字会」による神霊研究の成果です。

 

当時、神霊研究と量子力学とを重ね合わせ研究されていた訳ではありません。神がかったりする降霊術など、現代では忌み嫌われる部類の非科学的な研究です。なお「紅卍字会」については、この記事では深堀りしません

 

ちなみに僕は昔、幽体離脱したことがあり、その時に「自分の意識が2つある状態」を体験しています。

  

「粒子と波の二重性」を神話に重ね合わせてみる

 

先程も記述しましたように、

光は、波と粒子の性質を同時に持ち合わせています。

それをどちらかひとつに確定してしまうのは、

僕ら人間の観測という行為です。

言い換えれば、僕らの意識が光の状態を確定してしまうとも言えます。

 

我が国の神話、古事記において、

スサノオ命は乱暴者として、アマテラス大御神に警戒されてしまいますが、

スサノオは果たして本当に乱暴者だったのでしょうか。

疑われたから乱暴を働いたのか、

はたまた、

本当に乱暴者だったから疑われたのか。。。

卵が先か鶏が先か。先に不義をはたらいたのはアッチだ。いやソッチだ。

スサノオにはスサノオの真実があり、アマテラスにはアマテラスの真実があります。

第三者は、

スサノオを信頼する者はスサノオに真実を見、

アマテラスを信頼する者は、アマテラスに真実を見る、

たとえ誰かが本人にあなたに正義はあるのか、と尋ね、

本人が、

「はい」と答えようが、「いいえ」と答えようが、

人間は、真実の為の選択よりも、信頼し続ける為の答えの方を選択します。

それは本人の言葉とは全く無関係に、です。

アマテラスを信頼したい者は、アマテラスに正義があるという答えを。

スサノオを信頼したい者は、スサノオの方に正義があるのだとする答えを。

 

天岩戸開き

 

現世においてもスキャンダルにまみれた者が、

表舞台から追いやられる、亡き者にされる、ということはよくある話ですネ。

そもそもスキャンダラスなこの星に生まれ落ち、

どちらに正義がある等と、どこの誰が口にできる(批判できる・確定できる)というのでしょう。

それを口にすればどちらかを酷く傷つけます。

であるならば、

僕らに出来ることは、信頼する者の為、

黙ってそばに寄り添い、共に泣き、共に笑う、

それしかないのではないでしょうか。

 

 

少しばかり話がそれてしまいました。

スサノオが母(伊邪那美命)のいない寂しさから、心荒ぶったのは確かですね。

誰もが例外なく、子供時代を過ごし、大人に育てられます。

親がいない寂しさは誰もが理解できるはずです。

なのに、どこの誰がそれを甘えだと批判できるというのでしょうか。

 

光が粒子と波、ふたつの性質を同時に合わせ持つように、

この世の事象も必ず、二つの異なる事象(見え方)を合わせ持ちます。

同じ事象でも、悪ととらえる人、善ととらえる人、人それぞれです。

それを口にすれば、その事象がどちらかに確定。

口にしたもの自身も、周りの人々に表明したこととなり、確定。

ゆえ、

誰かを批判(確定)することは、必ずブーメランとなって返ってくるのです。

 

であるならば、

あの人はこんな人だ、この人はそんな人だ等と、誰かにレッテルを貼りつけるのではなく、

誰かを批判することなく、

愛を放つこと。

愛を放つ、

それは、

縦の世界においては祈り

横の世界においては働き(はたを楽に)

そうすることで、僕らは無限の可能性を有することができ、

そうすることが、この星を平和に導く、一番の近道なのだと、

僕は信じてます。

 

「量子もつれ」を神話に重ね合わせてみる

 

量子もつれを、神話に重ね合わせるならば、

そこに登場する人物すべてが、もつれです。

たとえばドラマを制作するとして、出演者はすべてもつれ合っていて、

互いに影響しあいます。

シナリオの冒頭、

その文字を読み始めたとたん、時間が流れ始める。。。

ドラマのはじまり。はじめにことばありき、ですネ。

 

先程述べましたように、

コーヒーカップのデザインを演出した(選んだ)のはあなたですが、

コーヒーカップそのものを作ったのは別人、というように、

この世界ではもつれ(縁)というものが存在します。

  

日本の神話風に言うならば、

もつれとは、「結び」と言い換えることが出来るんじゃないでしょうか。

互いに縁あって、家族となり、友達となり、恋人となる。

ふたつの粒子が特別な絆で結ばれていて、

どんなに離れていてもお互いの状態が影響しあう。

それが量子もつれです。

スピリチュアルな世界には、ソウルメイト、ツインソウル、

なんて言葉も存在しますが、

量子力学における、量子もつれは、

一度も位置的に近づいたことがない粒子同士が、自然にもつれることは無いのだとか。

「量子もつれは、必ず何らかの相互作用や共通の生成プロセスによって作られる」、

とのこと。

ただ、この間も、メディアを通じ、とある政治家に反感をもった人物が、

凶器で襲い掛かる事件もありましたし、

本で作者に良い影響を受けたり、

SNSによるひとつの情報から反感をもったり、

それらも、もつれのようなものだと僕は感じています。

 

神話から話が大きくそれてしまいましたが、

伊耶那岐命と伊耶那美命がもつれ、

天照大御神と須佐之男命がもつれ、

大国主命が須勢理毘売命、八上比売、沼河比売、、、

と、もつれにもつれていきます。

 

というわけで、次に、このもつれあうことで構成された物語(神話)が、

何を象徴したものなのか、

僕なりの解釈でもって語っていきたいと思います。

 

神話をさらに神話化(抽象化)してみる

 

この項においては、我が国の心を抽象化した神話を、

さらに抽象化(データ化、いわゆる抽象度上げ)した上で、

言語化を試みたいと思います。

 

濁りを身に纏った「あ」と、

たとえば、

濁りを身に纏った「お」が出逢い(引力)、

結び、結ばれ(化学反応、情報化)、

そして、

「あ」と「お」それぞれが役割を終え(引力そして重力からの解放)、それぞれ昇華(火葬)してゆく時に、

この星の新陳代謝が行われてゆきます。

 

神々が天命をもってこの星に天降り

人と人とが出逢うとき、

想いを言葉にする、

それにより巻き起こる、悲喜こもごも。(化学反応)

初恋、ラブレター、告白、失恋、プロポーズ、結婚、離婚、嫉妬、愛情、偕老(かいろう)

きみに出逢えてしあわせでした

おうまさん、かたぐるま、おんぶ、だっこ、おとうさん、おかあさん、だいすき☆

つかれた、めんどくせー、しらねーよ、だいっきらい、

反抗期、勘当、家出、病気、入院、お葬式。

あなたともっと話がしたかった

友情、協力、先輩、後輩、仲間、裏切り、助け合い、

学び、成長、文化の発展、科学の進歩、戦争、平和、栄枯盛衰。

私達をお赦しください自分が何をしているのか、どうすればいいのか分からないのです

えとせとら。。。

 

伊邪那岐命、伊邪那美命、ふたりの神様も、言葉のかけ違いから、ひと悶着ありましたね。

 

はじめにことばありき

神様の想い(愛)命(ことば)となり

DNAあなたを形作って

データ情報となり

苛立ち喧嘩となり

愛する気持ち幸せな日々をもたらし

人々の憎しみの感情戦争となり

人類が抱く未来への希望科学技術の進歩をもたらします

神様森羅万象を形作られたのです

僕らの想いあらゆる事象を形作っているのです

神々(愛)が命(ことば)となった

あなたのきみの、その身体。

事柄、事象、というように、

事(こと)も想い(愛)がカタチとなったもの。

あなたが今、目にしているスマホも、PCも、

暮らしを生活を便利にしたいという人類(神々)の想いがかたちとなったもの

これらすべて、

データ(神様の数式)をもとに形作られた情報(森羅万象)なのです。

 

古事記で描かれる、

神々が天降ったばかりのこの星は、ドロドロの状態です。

僕ら(ミコトとなった神々)のお仕事は、このドロドロのお掃除です。

ドロドロの正体は、新陳代謝できないで溜まってしまった澱。

新陳代謝できなくなったこの星は、いわば癌化した細胞。

腐ったミカンが周りのミカンを腐らせるように、

癌化した星を放っておく行為は、まわりの星を癌化させかねません。

この癌化した星を救う為、意気揚々と降り立ったのが僕ら人類(いわばリンパ球)です。

しかし、思った以上に、この星のお仕事は大変でした。

古事記を紐解けばわかるように、

生老病死の苦しみ悲しみは、

神々の想像以上に僕らの思考を鈍らせる、澄んだ想いを曇らせる、ものでした。

事故や怪我、時に仲間の命を失ってでも、失敗を通して、学び、成長し、

次の世代へと、その学びを語り継いでいく。

いつか、いつの日か、この星に神々の軽やかな世界をおろす為に。。。

それが、

絶叫、悲鳴と共に、亡くなっていく仲間を目(ま)の当たりにして、

僕らは、次第に、失敗することを躊躇い、恐れるようになります。

自責の念、

お前が悪い、

罵倒、謀略、

疑い、裏切り、嫉妬、怒り、、、

疑いが相手の疑いを呼び、

嫉妬が嫉妬を呼ぶ。

裏切りのコトバが、相手に裏切りの心を惹起させ、

その心でもって相手を批判するとき、

己の中に同じ言葉が既にカタチ作られていたことに愕然とす。

因果応報。

自業自得。

身から出た錆。

仇も情けも我が身より出る。

それはまるでを見るかのように、相手を通して学んでいくためと分かっていたのに、

神々は、神々であったことを、少しずつ少しずつ、忘れてしまったのです。

 

それでも神々は挑戦をやめません。どんどん天降ります。

神々であったことを忘れ果てた親たちのもとへ。

僕らも、忘れ果てる、そのことを前提として、生まれきたのです。

 

命(みこと)を奪われ、名を奪われ、

その何もかも奪われた盲目状態の親を信頼し、

洗脳され、教育され、

己まで、命(みこと)を奪われ、名を奪われ、

この星ではたらくため、この星を救うために、この星の濁りをあえて身に纏うのです。

 

『千と千尋の神隠し』にて、

異世界に飛び込んだ千尋の身体が消え失せそうになる時、

ハクがその異世界の食べ物(愛情)を食べさせてやりますネ。

そうすることで、千尋の身体は異世界の響きを身に纏うことができるのです。

そうすることでこの星にて働くことができるのです。

 

 

ココまで書いてきたことをを視覚化(データ化)してみたいと思います。

 

 

この画像は水槽の底に溜まった澱(ヘドロ)です。

古事記で語られるドロドロの地球をイメージしてください。

神様が、神々が、僕達が、愛の言葉を発する(祈り)ことで、

きれいな真水がそそがれ(天降る)、

 

 

ヘドロが巻き上がります。

情報化です。

冒頭にて、リンゴの香りがリンゴの夢を形作ったのと同様に、

このヘドロが形作られ(物語)、

小さく表現した時が、喧嘩、結婚、

大きく表現した時が、戦争、災害、産業革命、科学の進歩。

 

たとえば、

太古の昔は足で歩く移動手段しかなかったものが、

古代、馬車に乗るようになり、

近代、自動車、飛行機が発明され、

現代においては、リニアやジェット機等、より高速に移動できます。

情報という点でみれば、

太古の昔、口から発する言葉によって、人から人へ伝えていくしかできなかったものが、

古代、文字と紙が生み出され、より正確に多くの人に情報を伝えることができるようになり、

近代、低い周波数帯のラジオやテレビが、

現代においては、やや高い周波数帯のスマホ、インターネットが発明されたことにより、

瞬時に、遠くの、より多くの情報を手にすることが出来、また発信することもできるので、

世界中の人、より多くの人と情報を共有することができるようになりました。

 

人類(神々)は、

さまざまな物語(ヘドロ)を経て、

さまざまな経験(ヘドロ)を経て、

この星の濁りを、かなりきれいにしてきたのです。

軽く、そして、早くなってきているのです。

 

アニメ、クレヨンしんちゃんの映画、

『しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE 超能力大決戦 ~とべとべ手巻き寿司~』にて、

闇の力を手に入れた非理谷充(ひりやみつる)くん、

と光の力を手にした、しんちゃんとが戦うのですが、

その充くんを操り、世界の転覆を企てる、ヌスットラダマス2世も、

それを阻止しようとする教授も、本当はお友達で、

充くんを巨大な怪物へとカタチ作った、その闇のエネルギーの正体は、

僕らひとりひとりが日々発する、負のエネルギーという設定です。

 

 

本当に悪いヤツってさ、

すぐに感情的になる、ボクなんじゃ・・・

すぐに人を批判する、キミなんじゃ・・・

ヌスットラダマス2世と教授が友達だったように、

本当の、本当は、

悪いやつなんてどこにもいなくて、

みんな誰かの犠牲者で、みんな何か大切なことを忘れてるだけなんだよネ

ってのが、この映画のテーマです。

 

古事記とあわせ、

これが日本の心、

我が国の雛型なのだと、僕は思うのです。(アニメと古事記を一緒にしたら怒られそうですが)

 

大事なことは、

忘れてはならないのは、

本来、完成されたもの、

完璧であったものが、この地に降り立ったということ。

 

既に完成されたものが存在して、

あなたのなかに完璧なものが刻み込まれているのです。

最高の科学も。

最高の癒す力も。

最高の叡智も。

それは、

生老病死の苦悩を超え、平安に満ちた、幸せそのものの存在。

何かを付け足す必要などないのです。

この星の劣化した素材を付け足せば付け足すほど、重くなってしまいます。

 

ただ、

ハクが千尋に食べ物(愛情)を与えてくれたように、

この星に降り立つために、

一度は、この星の素材を身につける必要はあるでしょう。

でも、

忘れないでください。

それは、いつか、いつの日か、

脱ぎ捨てるべき素材。

このことは忘れないでください。

そのことを思い出すのです。

それが僕らのお仕事、役目、天命だったはずです。

 

ヘドロがあなたではない。

真水の方です。

 

どんどん真水を注ぎ入れることで(祈り)、

舞い上がるヘドロが戦争や天変地異などの出来事に物語化(情報化)される。

その物語を科学や文化の発展として、お掃除(はたらく)してきたのが、僕ら人類です。

こうして、ヘドロは消えてゆき、

少しずつ、少しずつ、この星は軽く、速く、キレイになっていくのです。

  

こんなことをしてはいけないと、

他人の行い、自分の言動さえも批判し、抑えつけてはいけません。

こんな感情、欲望はよくないと、否定することはありません。

否定する行為は、ヘドロを抑え込み、再び水槽の底へと沈殿させることになってしまいます。

肯定することもいけません。

肯定する行為は、あなたがヘドロであることを肯定したことになってしまいます。

(あなたは「千」ではなく、真実は「千尋」であったはず)

更に祈るのです。

『天の浮橋』に立つのです。真水を注ぐ方に。

 

冒頭、古事記の引用にて出てきた言葉、『天の浮橋』。僕が東京で通っていた合気道の先生は、合気道の開祖、植芝盛平の内弟子だった方ですが、開祖はよく、「合気道を志すものは、古事記を読みなさい」、「合気道家は、常に『天の浮橋』に立って稽古をし、生活すること」と語られていたと、話しておられたのを思い出します。当時の僕は『天の浮橋に立つ』この意味がまったく理解できませんでしたし、東京の先生も「何言ってんだ、このジジイ」と思ってたと話されてましたw(開祖は話が長かったので、足がシビレてそんな感情になったとも言い訳されてました (^-^) )

 

人の行為を批判する、責める。

自分の行為を責める、

どちらも、せっかく浮き上がったヘドロを抑え込み、再び沈殿させてしまう行為です。

 

誰かを批判したって「しゃーない」のです。

誰だって、悪役など演じたくはない。

演じている事を忘れ果て、

裏切り、残酷に鞭打ち亡き者にしたのは、僕らひとりひとりです。

 

夢を見ているときは、自分が今夢をみている真っ只中にいることに気づくのは、

ほぼ不可能にちかいですよね。

僕らは今、その状態にあるのです。

ヘドロにまみれ、神々であることを忘れ、物語を演じていることも忘れ果て、

(何度も言いますが、あなたは「千」ではなく、真実は「千尋」であったはずですネ)

物語を真実であると思い込んでいます。

それは違う。

真水であることを、神々であったことを思い出しましょう。

これが『天の浮橋に立つ』という本当の意味です。

(祈りながらはたらく、はたをらくにする)

真実でもない物語を見て、良い悪い、などと批判するのではなく、

喧嘩、デモ活動、革命運動をするよりも、(それに加わることを僕は否定はしないですが)

しんちゃんと非理谷充くんの物語を、

ひまわり(しんちゃんの妹)が映し出したスクリーンにて家族みんなで応援したのと同じように、

真水を入れることで、ひたすら祈ることで、

世界中のひとびとを、ただひたすらに応援するのです。

祈りながら、あなたの日々の生活、家族、身近な人を大切にし、はたらく

これが我が国日本の生き方、行き方、であって

古来より未来へと続く

日本の心なのです。

神々の住まわれる天と、我々の住む大地を貫く

雛型なのです。

 

僕らの生まれてきた理由

 

情報の本質

 

以上、

量子力学からみた情報と神話からみた情報と、

言い換えれば、

科学的観点と宗教的観点から情報について論じてみました。

これ以降の記事では、

これらふたつを統合、

より良いものへと昇華させる(ふたつのまま)作業を行っていきたいと思います。

 

伝言ゲーム

 

情報とは所詮、伝言ゲームの成れの果てです。

これまで述べてきた通り、僕らが発した言葉は、瞬間、濁りを纏います。

日本語には様々な言葉、熟語が存在しますが、

同じ言葉も、ひとりひとり定義づけ、受け取り方は様々、千差万別です。

たとえば「自由」という言葉。

この言葉を聞き、希望を感じる人もいれば、そのひとの精神状態によっては、

同じ言葉から絶望さえ感じる人もいるのです。

たとえば「情」という言葉。

情が人間関係を円滑にすることもあれば、

逆に、相手の自立心をダメにしてしまうこともあったりします。

また、

大人になるまで、人と違う定義で言葉を使ってた、

あるいは、この人、少し違う定義づけをして言葉使ってるな・・・

なんてのはよくある話ですね。

 

イエスさんの、お釈迦様の、すばらしい教えも、師が口にした途端、もとの力を失います。

お弟子方の心の在り方により、師の教えの受け止め方は千差万別です。

主観の入らぬ情報など存在しません。

どれ程に素晴らしい教え(情報)であっても、

お弟子方の心の在り方(清らかさ、欲深さ)に左右され、

その時代時代の文化レベル(共同幻想)に帰着するのです。

弟子に最適化された教えを、次の弟子が語り、その最適化した教えを、そのまた次の弟子が最適化させて語り、、、

これが、宗教が分裂するそもそもの原因ですね。

 

人がよく口にする、

「それは非科学的だ」

なんて言葉もおなじですね。

今日の「科学的」は、明日には、

いや、

今この瞬間に非科学に成り下がります。

いやいや、未来からすれば、どれだけ現代科学が非科学的なものであるか。

他人(過去)は客観視できても、

己(今現在)のことは、客観視することが難しいのが我ら人類です。

たとえば、

1900年代半ばに行われ、今現在は「負の歴史」とされる、

ロボトミーといわれる医療技術。

(脳の前頭葉の神経繊維を切断することで不安を取り除こうとする技術)

この医療について、少しでも検索等して調べてもらえばわかりますが、

「えぇ!こんなことしてたの?」

なんて、驚くような医療技術です。。。

僕が、何を言いたいか。

賢明なあなたならば既に、僕が次に書くことを予見できておられると思いますが、

そう、

未来からみれば、今の医療技術は、「負の歴史」へと成り下がるのです。

「えぇ!こんなことしてたの?」

それが、今僕らが行ってる最新の医療技術です。

必ず。

必ず、なんて、不確定要素の少しでも入った言葉なんかじゃない。

絶対です。

 

トンデモ科学(疑似科学)を信じるなんて低学歴だと思われてしまう、とか、

プライドという、科学とは無関係の感情を一切捨て、

真に合理的に、科学的に思考すれば、

将来、医療というものは消えて無くなるのは自明の理です。

これらは医学の発展により起こるものではなく、科学の発展によりもたらされるものです。

(テレパシー(この技術は既得権益者から真に誠実な者へ科学を解放します)、

 テレポート、磁場による技術・・・これらは病を、事故や怪我も、先天性の病さえも将来的に消しさります)

 

 

イーロン・マスクがテレパシーについて言及しているポストです。

もうすぐ可能となる技術のようですね。

ただ、本来ひとが身に宿している能力を、このようなモノ(脳にマイクロチップを埋め込む)を

装着することで得ようとする事は、必ず不幸を生み出します。

未来の科学の様に見えるだけで、これこそ非科学です。

とはいえ、

病に苦しむ人を救う為と称し、(一旦は)人々は率先してそれを受け入れるでしょう。

  

これはイーロンマスクさん自身に対する批判ではありません。僕は表舞台を去られることになったマスクさんをとても残念に思ってます。任期を終えられての退任のようですが、日本のメディアはそこに合わせるかのように、大統領選挙中にマスクさんが「薬物を使用」しただの、マイナスな表現で書きつらね、まるでそのことで退任させられたかのような書きぶりでした。マスクさん側に寄り添った表現をすると、「不安を抑えるため心療内科の薬を服用」されたに過ぎません。

 

このように、情報の元となるもの、データを常に意識していなければ、

力を失った情報をそのまま真実として、受け止めてしまいかねません。

 

ここまで読んでこられた、あなたならばなんとなく想像はつくかもですが、

言い換えれば、データの流れ来る場所、未来(神々の世界)を意識することで、

僕らは「伝言ゲーム」化された情報の悪影響を受けることなく、物事の判断が可能となるのです。

 

この項は量子力学に云う、「重ね合わせ」の状態を根幹とする事象です。量子はふたつの状態を同時に持つことができ、ひとが観測することでひとつの状態に確定、片方の状態は崩壊、消失し、このマクロな世界に最適化していきます。情報という観点から解説すると、他者が発した情報がエネルギーを失っていく姿です

 

チェリーピッキング

  

 

ペットボトルに入ったこの水。仮に、水が250ml、あるとします。

このデータ(事実)を情報として発信する時、必ず、例外なく、発信しようとする人の主観が入ります。

水が十分な量あるのか、ないのか。

家で飲む為の量なのか、砂漠に持って行く為の水なのか。

発信者が、俺は体力があるんだ、と自慢したいタイプなのか、

人の体調のことをまず心配するタイプのひとなのか。

水を売ることを生業(なりわい)にするひとなのか、等々。

砂漠で遭難した経験のある方ならば、水を必要以上に所持したがるかもしれません。

日本人で蛇口をひねれば、すぐにきれいな水が出てくるような環境であれば、

そこまでの必要性を感じないでしょう。

このように、データを読み取り、情報として発信するとき、

必ず、そこに発信者の主観が入ってしまうことが理解できると思います。

 

ひとの人物評、事象の受け止め方も、千差万別、

歴史的資料、学術論文についても、ひとにより正論にも曲論にもなり得るのです。

たとえば、あのお釈迦様にでさえ、お釈迦様を悪く評価し、憎む、提婆達多(だいばだった)という人物が存在します。

 

量子力学で云われる、光の性質の二重性、

光は粒子と波の性質を同時に持ち、観測者が観測することで片方の性質に確定される、のと同じですね。

要は観測者次第で、データなど、どうにでも情報化できる、ということです。



〇〇、反〇〇、必ず相反する説が存在するというのに、

どちらの説も尊重するといった態度が取られることは稀であり、

片方の説は一切取り上げられないか、どちらが正しく、そっちは間違ってる、

といったマウントの取り合いが始まります。 

あの先生に逆らったらこの世界では食べていけない、

とか、

常識から外れる(とされる)ようなことをしていては、研究費がおりない、

とか、

そんな非科学的なことをしているのが、今現在の最新科学です。

今の科学を超えたところを夢見て研究しなければ、科学に発展はありえない、

のに、

超えたところを目指す優れた人達を、

異端だの、オカルトだの、蔑み、研究させない、

生活できないようにしむける。

そんなありえない事をしているのが現代科学です。

僕らがすこしでも、ほんの少しでもいい、科学の発展について思考するようになれば、

より高次のエネルギーの発見(それを発見できないのは僕らが理解できていないだけ)、

電磁波の発見につながり、

既得権益目当ての科学的停滞(意図された足踏み、一部権力者のみ得する足踏み)と、

オサラバできるのだと僕は思ってます。

 

このように情報の二重性を常に意識していなければ、

善悪、正誤、真偽、など、

どちらかに偏った情報をそのまま受け止めてしまいかねません。

 

ここまで読んでこられた、キミならばなんとなく想像つくかもですが、

言い換えれば、

肌の色、国の違いなど、

お互いの立場(環境、空間)を、なんら批判することなく広く広く認識することで、

僕らは「チェリーピッキング」化された情報の悪影響を受けることなく、

物事の判断が可能となるのです。

  

この項は量子力学に云う、「光の二重性」の状態を根幹とする事象です。光子はふたつの状態を同時に持つことができ、ひとが観測することでひとつの状態に確定しますが、もう片方の性質は無くなってしまう訳でなく、同時に存在し続けます。情報という観点から解説すると、データを情報化する際、○○、反○○、どちらを選択(ピッキング)し情報化するか、を表現した姿です

 

チェリーピッキングの性質『認知バイアス』、いろいろ。

 

上の項、

伝言ゲームは発信された情報がエネルギーを失っていく過程を、

チェリーピッキングは情報がどちらかに選択され、形作られていく過程を、

おおまかに、(抽象度をあげ二つにしぼって)解説しました。

陰陽二元論において、陰の中にも陽があり、陽のはたらきの中にも陰のはたらきが存在するように、

伝言ゲームの性質の中にも、チェリーピッキングの性質は存在します。

そもそも、

誰かがチェリーピッキングし発した情報を受け取る、その時に、

伝言ゲームされ、伝言ゲームされた情報をまた複数の他者へチェリーピッキングし、その情報を発信。

情報を受け取る複数の人たちは伝言ゲームされた情報をチェリー・・・

伝言がチェリーなのか。

ん?

チェリーが伝言だったっけ?

てな感じで分からなくなってきます。 ヽ( ´ー`)ノ

大事なことは、

情報は、伝わるごとに、エネルギーを失っていく、

ということです。

だからこそ、

信頼できる情報を得ようとするなら、

信頼できる情報を発信しようと思うなら、

元データ、を必ず自分であたる、

かつ、

常に、

データをバイアスなく、客観視できる人格が必要となってきます。

 

映画『もののけ姫』にて、

イノシシを祟り神にした原因を求め、

エボシの元にやってきたアシタカが放つセリフ、

「曇りなき眼(まなこ)でものごとを見定め、決める」

 

 

シシ神の森と。タタラ場と。

古いものを大事にしていこうとする人たちと。

新しいものでもって、古きを切り開いていこうとする人たちと。

どちらにも正義はあります。

その真意を知るには、どちらの懐にも飛び込んでいく必要があるでしょう。

それをもって、

あいつはあちらと付合いがあるから、あちらの味方だ、

信用ならん!

とすることは、

アシタカの様な信頼できる情報源を失うことになりかねません。

信頼できる情報を発する、信頼できる情報を得る、

どちらにしても、曇りなき眼は必要ですね。

 

データを読み取り、

情報として発する際のチェリーピッキング。

そのチェリーピッキングには具体的にどういった性質のものが存在するのか、

ふたたび止陽・昇華し、組み上げていく際の参考になると思いますので、

一旦、抽象度を下げ、分解してみたいと思います。

 

正常性バイアス

 

危ないときに『きっと大丈夫』、『自分は大丈夫』と思いこんでしまう心のクセのこと

 

【具体例】

・地震が起きても「いつもの揺れだよ」と避難しない

・火事の煙を見ても「ちょっとだけだから平気」と逃げ遅れる

 

 

何故起こる?

 

脳が「怖いことを考えたくない!」と現実から目をそらすことで、パニックを防ごうとする仕組み。

でも、本当に危ない時は、このクセが命を危なくすることもありますネ。

 

【対策のヒント】

 

・災害訓練で「逃げる練習」をする。

・「慌てて逃げるなんてカッコ悪いぜ」、なんて変なプライドや、めんどくさい、なんて余計な感情を捨て、危ない!という直感に従えるように日頃から意識する。

(↑言うは易し、ですね (*´ -`) )

 

確証バイアス

 

自分が正しいと思うもの、支持する情報ばかりをピッキングしてしまうこと。

 

【具体例】

・テレビから流れる情報と真反対の意見は、すべて陰謀論と片付けてしまう

・その逆に、すべて陰謀論的なことばかり信じてしまう

・この人は仕事上でよくミスをする、と一旦ラベリング(評価)してしまうと、その情報しか目(耳)に入らなくなる、その人の良い情報はピッキングしなくなる

 

 

【何故起こる?】

 

脳が「自分の考えを守りたい!」と働くため。自己保存の本能ですね。

自分が信じたいものだけを信じる方が、労力は少なくて済みます。

新しい情報を探すより、今の考えを支える情報を集める方が楽だからです。

 

【対策のヒント】

 

・他の人に反対意見を聞いてみる。

・自分と違う意見の人と話す練習をする

・調べものをする時は「相反する観点の情報」をどちらも探す。

 

上の正常性バイアスと、この確証バイアスは似通っていますが、正常性バイアスは主に危機管理に関する情報をピッキングする際のもので、確証バイアスは、仕事や人間関係において、自分が支持する情報のみ選択してしまう場合に用いられます

 

自己中心性バイアス

 

自分と同じように、相手も経験していたり、同じように解釈してると思い込んでしまう傾向のこと。

 

【具体例】

・自分の気持ちを、相手が分かってくれてると勝手に思い込む

・自分が簡単にできる仕事は、他人も簡単にできると思い込む

・主語を言わないくせに、話が伝わらないことをコチラの所為にする

・鍋奉行、焼肉奉行

・ストーカー

 

 

【何故起こる?】

 

自分の気持ちや考えが一番よくわかるから、つい「相手も同じ」と思ってしまうのですね。

 

【対策のヒント】

 

・「相手はどう思っているかな?」と考えてみる

・『人の気持ちはわからない』を前提にして、意見を聞いてみる

・主語を意識する

 

投影バイアス

 

自分の好きなことや気持ちを、まわりの人も同じだと思いこんでしまうこと。

 

【具体例】

・自分が興味のある話を、相手の気持ちは構わず、いつまでも話し続ける

・陰謀論を語りだす

・聞いてもないのに己の国家観を語りだす

・武勇伝、武勇伝、武勇、でんでんででんでん

 

 

【何故起こる?】

 

自分の気持ちや考えが当たり前だと思ってしまい、他の人の気持ちや考え方を想像するのがむずかしいから。

言い換えると、

他の人の立場や考えをあまり考慮せず、自分の気持ちをそのまま「みんなも同じ」と思ってしまうためです。

 

【対策のヒント】

 

・人の本心など分りっこないことを思い出す。

・友だちや家族など、他の人の意見を聞いてみる

・口コミ、コメント欄等の意見も時々眺めることで、こんな意見もあるんだなぁ、と意識しておく。

 

この投影バイアスと自己中心性バイアスは似通ってはいますが、投影バイアスは主に自分の好みや感情、価値観を他人に押し付ける場合に、自己中心性バイアスは自分の視点・経験を基準に他人を判断してしまう場合に用います。簡単に言うと、投影バイアスは、「自分が好きなら相手も好き」自己中心性バイアスは「自分が簡単にできるなら相手も簡単」です

 

生存バイアス

 

成功例の情報のみピッキングし、失敗例は目(耳)に入らない状態のこと。

 

【具体例】

・投資で儲かったひとの情報だけをピッキングし、それにより大金を失った側の情報は集めようとしない

・仕事において、ミスした失敗例をピッキングしない

 

 

【何故起こる?】

 

目立つ成功者ばかりが注目され、影で消えた失敗例が見えなくなるから。

脳が「キラキラした成功ストーリー」に引き寄せられるためです。

 

【対策のヒント】

 

・成功者の話を聞く時、失敗した経験も聞いてみる

 

後知恵バイアス

 

結果を知った後に『やっぱりそうなると思ってた!』って言ったり、言われたりする、

いわゆる結果論、後だしジャンケンのこと。

 

【具体例】

・投資において、「この動きは予想できてた」と後から思う

・ゲームで負けた後に「あの時こうすれば勝てたはず」と後から言い訳する

 

 

【何故起こる?】

 

脳が「自分の予想が当たった気分」を味わいたくて、記憶を勝手に書き換えるから。

本当は「わかってなかったこと」を「わかってた」と思い込んでしまう。

 

【対策のヒント】

 

・「あの時こうすれば勝てた」ではなく、「あの時、どうして負けたか」に視点を移す

・自分の判断をメモしておき、後で読み返す

 

ここでこうしておけば勝てただろ?
ではなく、
次回からはここでこうするようにしましょう☆
であるならば、バイアスはかかってないことになりますね。
ん?言い方か?w

 

自己奉仕バイアス

 

成功した時は『俺ってスゴイ!』、失敗した時は『〇〇のせい!』とやっちゃう他責思考のこと

 

【具体例】

・テストで100点をとったら自分が頑張ったおかげ、悪い点しかとれなかったら、先生の教え方が悪い

・サッカーの試合で、勝ったら「僕のシュートのおかげ」、負けたら「チームメイトがパスしてくれないから」

 

 

【何故起こる?】

 

脳が「自分のことをカッコよく見せたい!」と働くため。

失敗の原因を自分から遠ざけて、心を守ろうとする仕組み。

 

【対策のヒント】

 

・成功した時「誰が助けてくれた?」と周りに目を向ける

・失敗した時「自分のできることはなかった?」と一度考える

・自分原因論で思考してみる

 

感情バイアス

 

自分の好き嫌いで、物事を決めてしまうこと。

 

【具体例】

・好きな友だちがミスした場合は許せるけど、苦手なひとが同じミスをすると許せない

・仕事場で親しい人の意見は正しいと思い、苦手な人の意見は間違いだと判断しがち

・嫌いな人のすることは、すべて悪意に受け取る

・好きなキャラクターがコラボしている、という理由だけで、性能の悪い商品でも購入してしまう

 

 

【何故起こる?】

 

人は、好き嫌いといった感情や、過去の経験やストレスが、どうしても判断に影響してしまうから。

 

【対策のヒント】

 

・友だちや家族など、あるいは第三者など、他の人の意見も聞いてみる

・好き嫌いで決めていないか、一度立ち止まって考えてみる

 

保守性バイアス

 

新しいことや変化をなかなか受け入れず、今まで通りのやり方や考え方にこだわってしまうこと。

 

【具体例】

・レストランでいつも同じメニューしか頼まない

・新しいひととの交流を避ける

・新しいアプリなんて入れなくていい

 

 

【何故起こる?】

 

知っていることや慣れていることの方が安心できるから。

言い換えれば、

新しいことをすると失敗したり、損をしたりするのが怖いからです。

  

【対策のヒント】

 

・たまには、やったことがないことにチャレンジしてみて、意外に面白いことに気づく。

・新しもの好きの友だち、知人をひとりでいいから見つける。そして教えてもらう。

 

外集団同質性バイアス

 

自分が所属していないグループの人たちは、みんな同じような人だと思い込んでしまうこと。

 

【具体例】

・男ってさぁ、女ってさぁ

・中国人はみんな・・・

・自民党は、共産党は

・最近の若者は・・・

・外国人の顔が全部同じに見える

・違う世代の聴く音楽が皆同じに聞こえる

 

 

【何故起こる?】

 

自分のグループ(クラスや家族、友だちなど)はよく知っているので、一人ひとりの違いが分かるけど、あまり知らないグループは「みんな同じ」とまとめて考えてしまうから。

自分のグループはよく思いたいという意識。

脳が情報をまとめて考えることで、早く判断したり、エネルギーを節約しようとするからです。

 

【対策のヒント】

 

・外のグループの人とも話してみたり、いろんな人をよく観察してみる

・自分が知らないだけで、いろんな人がいるはずだと意識する

・信頼できる人や友だちや家族のいろいろな意見も聞いてみる

 

一貫性バイアス

 

前に決めたことや思ったこと、やったことを、今後もずっと同じだと思い込んでしまう癖。

 

【具体例】

・一度失敗しただけで、苦手になってしまう

・子供の頃、怖かったひとを、大人になった今も怖いひとだと思い続ける

 

 

【何故起こる?】

 

人は考えや気持ちがコロコロ変わると疲れてしまうので、「前と同じにしておこう」と脳が省エネしようとするため。

言い換えると、

自分の考えやイメージに矛盾があると気持ちがモヤモヤするので、一貫した考え方を保とうとするからです。

 

【対策のヒント】

 

・友だちや家族など、他の人の意見を聞いてみる

苦手意識というものは、バイアス(偏り)が無くなってゆくにともない、消えてゆくことに気づく

  

アンダードッグ効果

 

弱い立場や負けそうな人を、つい応援したくなること。いわゆる判官(ほうがん)びいき。

 

【具体例】

・源義経、菅原道真、西郷隆盛

・スポーツの試合で、強いチームと弱いチームが戦っているとき、弱いチームが一生懸命がんばっていると「がんばれ!」と応援したくなる

・子供が一生懸命努力していると、その子を応援したくなる

 

 

【何故起こる?】

 

人は困っている人や弱い人を助けたいという気持ちを本能的にもっているから。

一生懸命がんばる姿を見ると、感動したり共感したりして、「応援したい!」という気持ちが強くなるためです。

 

【対策のヒント】

 

・応援したい気持ちは大切だけど、本当にその人やチームが正しいか、他の人のこともよく見ているかも考えてみる

・応援する理由を「かわいそうだから」だけでなく、「どんな努力をしているか」「どんな考えをもっているか」も見てみる

 

バーナム効果

 

誰にでも当てはまるようなことを、自分だけに当てハマっていると思い込んでしまうこと。

 

【具体例】

・占いで「あなたはときどき不安になることがありますね」と言われると、「自分のことを言い当てられた!」と感じる

・血液型占いで、〇〇型は神経質だ、と書かれているから、自分は神経質だと思い込み生きていく

・他者に根拠のないことで「嫌なやつ」と言われたのに、その言を信じ、自分は嫌なやつなんだ、と思い込み生きていく

 

 

【何故起こる?】

 

人は権威あるひとや、皆が信じるもの、に弱く、そこから発せられた情報が、曖昧で広く当てはまる言葉であった場合、自分だけに向けられた特別なものだと感じてしまうからです。

 

【対策のヒント】

 

・占いの他の診断内容も自分にあてはまらないか、チェックしてみる

・そもそもの人間というものが、ひとつの情報に確定されるほど、小さなものではないことに気づく

 

真理の錯誤効果

 

同じ情報を何度も聴かされるうちに、本当のことだと思い込んでしまうこと。

 

【具体例】

・人の噂を聞かされてるうちに、本当にそういう人だと思い込む

・夜に爪を切ると親の死に目に会えない

・何故か何度も流される、庶民の生活には直接関係のないニュース

 

 

【何故起こる?】

 

脳は何度も聞く情報を「見たことがある→きっと正しい」と判断してしまうから。

みんなが同じことを言っていると、「間違ってないかも」と安心してしまうからです。

 

【対策のヒント】

 

・「本当にそうかな?」と一度立ち止まって考えてみる

・自分で調べたり、本や信頼できるサイトで確認する

・信頼できる他の人に「どうしてそう思うの?」と聞いて、理由を確かめる

・何度も流される同じ情報により、善悪の概念を作り替えられてはいないか、客観視する

 

ハロー効果

 

その人の目立つところ、肩書や見た目だけで、相手のすべてを決めてしまうこと。

 

【具体例】

・有名人がCMに出ているだけで、商品までいいものだと思ってしまう

・無口な子がいると、その子の全てをネガティブに捉えてしまう

 

 

【何故起こる?】

 

人はたくさんのことを一度に考えるのが苦手なので、目立つ特徴だけで全体を判断しようとしてしまうからです。

 

【対策のヒント】

 

・「この人の他のところもちゃんと見ているかな?」と考えてみる。

・友だちや知人、家族など、他の人の意見も聞いてみる。

 

コンコルド効果

 

もうやめたほうがいいとわかっているのに、今までがんばった分がもったいなくて、やめられなくなっちゃうこと。

いわゆるサンクコスト。

 

【具体例】

・クレーンゲームでたくさんお金をつぎ込んだのに、景品が取れそうで取れず、やめられない。

・友だちや恋人との関係で本当はもう仲良くしたくないのに、今まで一緒にいた時間がもったいないと思って、なかなか離れられない

 

 

【何故起こる?】

 

もったいないという気持ちが強くなってしまうから。

これまでに使ったお金や時間を無駄にしたくない、という気持ち(損失を避けたい気持ち)が働くためです。

 

【対策のヒント】

 

・信頼できる人に相談して、客観的なアドバイスをもらう

・何かを始めるときは、「ここまでやったらやめる」と最初にルールを決めておく

・これまで使ったお金や時間はもう戻ってこない、と割り切る練習をする

・今やめた方が損しなくて済むのでは、と一旦立ち止まり考えてみる

 

バンドワゴン効果

 

みんなが思っている事、やっていることに、自分も同調すべき、と思ってしまうこと。

 

【具体例】

・行列ができているお店を見ると、「きっとおいしいんだ!」と思って自分も並びたくなる

・みんなと同じものを欲しくなる(流行に乗る)

・みんなが批判していれば、良いことでも批判する。みんなが批判していなければ、悪い事でもスルーする

 

 

【何故起こる?】

 

みんなと同じだと安心する、間違えたくない、遅れたくないという気持ちがあるから。

多くの人が選んでいる情報は、きっと良いものだと思いやすいからです。

 

【対策のヒント】

 

・みんなに合わせるのではなく、本当に自分がやりたいことか、一旦冷静に考えてみる

・機能面のデータを自分で調べてみる

・親しい人の意見も聞いてみる

 

アンカリング効果

 

最初に見たり聞いたりした数字や情報に引っぱられて、その後の考えや行動が変わってしまうこと。

 

【具体例】

・お店で「この商品は1万円です」と最初に聞いたあと、「今日は特別に5千円です」と言われると、5千円でも安く感じてしまう

・悪そうな見た目の人が子犬を助けると、その一事だけで強い好印象を抱く

・安いワインでも(安いと知らず)高級店で高級だと思い込んで飲むと、高級な味がする☆

 

 

【何故起こる?】

  

人は何かを考えたり決めたりするとき、最初に見たり聞いたりした情報(アンカー)を基準にしてしまうから。

脳が新しい情報を考えるとき、ゼロから考えるのが大変なので、最初の情報に頼ってしまうためです。

 

【対策のヒント】

 

・他のデータや情報も調べてみる

・即決せずアイミツを心掛ける

・友だちや家族など、他の信頼できる人の意見も聞いてみる

 

フレーミング効果

 

同じこと(データ)でも言い方や見せ方が変わると、感じ方や考え方も変わってしまうこと。

 

【具体例】

・水が半分も残ってる→半分しか残ってない

・タウリン1000㎎→タウリン1g

・お医者さんが「この薬は100人中90人が治ります」と言うと安心するけど、「100人中10人は治りません」と言われると心配になる

・この食品は脂肪分が20%しかありません」と言われるとヘルシーに感じるけど、「脂肪分が20%もあります」と言われると太りそうに感じる

 

錯視

 

【何故起こる?】

 

人は、物事の「言い方」や「見せ方」に強く影響されやすいからです。

言葉や表現の仕方によって、頭の中のイメージや気持ちが変わるためです。

 

【対策のヒント】

 

・そこにしっかりとした信頼関係が築かれていない時は、お互い利害関係であることに留意する。

・よく云われる、「タウリン1000㎎→タウリン1g」の例のように、同じような情報のトリックを集めてみる。

・友だちや家族の意見も聞いてみる

 

バックファイア効果

 

自分が信じていることと違うことを言われると、逆に自分の考えをもっと強く信じてしまうこと。

 

【具体例】

・もう高齢なんだから車の運転は控えたほうが、と言われ、逆に頻繁に車を使って出かけてしまう。意固地。

・タバコは身体に悪いよ、と言われ、むしろ吸う量を増やしてみせる

・科学的データを提示されても、陰謀論者と感情的に非難してくる

・いわゆるカルト化

 

 

【何故起こる?】

 

自分の好きなものや大事にしている考えを否定されると、心が不安になったり、怒ったりしてしまうから。

自分の考えを守りたくて、反対の意見を聞き入れずに、もっと自分の考えを信じたくなるからです。

 

【対策のヒント】

 

・反対意見を聞いても感情的にならない

・信頼できる人等、いろいろな人の意見や、データ・事実も見てみる

・自分の考えが絶対正しいとは限らない、真実などわかりっこない、と時々思い出す。

 

根本的な帰属の誤り

 

誰かが何か失敗したとき、その人の性格や能力のせいだとすぐに思い込んでしまい、実はその人が置かれていた状況や理由をあまり考えないこと。

 

【具体例】

・ひとが遅刻してきたとき、「あの人はだらしないからだ」とすぐに思ってしまう(でも本当は電車が遅れたのかもしれない)

・仕事上のミスをその人の能力の所為にし、そもそも指示した自分のミスとは考えない

・組織で不祥事が起きたとき、実際には一部の人間が起こした不祥事であったり、現場の状況や組織全体の問題が影響している場合でも、「トップの人間性や能力が原因だ」と決めつけ考えてしまう

.いわゆるカスハラ

 

 

【何故起こる?】

 

他の人のことは、その人の性格や中身のせいにしやすく、相手の状況や理由など話を聞かないかぎり、わかりっこないから。

自分のことだと甘く、「仕方がなかった」「たまたまそうなった」と思いやすいのに、他人には厳しくなりがちだから。

 

【対策のヒント】

 

・「もしかしたら、その人にも何か理由や事情があったかも?」と考えてみる

・他の人の立場になって考えてみる。他の人の視点を取り入れる

・いろいろな情報を集めて、本当にその人だけのせいかどうか考える

 

代表性ヒューリスティック

 

何かを判断するときに、誰もがイメージするような代表的な特徴だけで判断してしまうこと。

 

【具体例】

・白衣を着ている人を見て「お医者さんかな?」と思う(でも、科学者や食品工場の人かもしれない)

・物知りで早口な人を「頭が良さそう」と判断する

 

 

【何故起こる?】

 

人は毎日たくさんの情報を受け取っているので、全部をじっくり考えていられません。そのため、「この特徴は○○っぽい!」と、知っているイメージ(代表的な特徴)と似ているかどうかで、すばやく判断しようとします。

 

【対策のヒント】

 

・「本当にその特徴だけで決めていいのかな?」と一度立ち止まって考えてみる

・みんなが持っているイメージ(ステレオタイプ)に流されすぎていないか、考えてみる

 

可用性ヒューリスティック

 

何かを決めるときや考えるときに、すぐ思い出せることや、目立って印象に残っていることだけをもとに判断してしまうこと。

 

【具体例】

・飛行機事故をみると、飛行機は危ないものだ、と判断する

・〇〇人は危ない

・よく聞く有名な会社や商品だけを選んでしまう

 

 

【何故起こる?】

 

人は頭にすぐ浮かぶことや、最近見たり聞いたりしたことを、「よくあること」「大事なこと」と思いやすいから。

脳がたくさんの情報を全部考えるのは大変なので、思い出しやすい感情に訴えるものだけで、素早く決めようとするためです。

 

【対策のヒント】

 

・いろいろな情報を調べたり、他の人の意見も聞いてみる

・みんなが言っていることや、よく見る情報だけを信じすぎないようにする

 

リスキーシフト

 

みんなで話し合って決めるとき、ひとりで決めるよりも大胆で危ない決断をしやすくなってしまうこと。

赤信号、みんなで渡れば怖くない。

 

【具体例】

・集団になると、自分が誰よりも目立つことをしたい、といった心理

・飲み会での煽りコール

・いじめの場

 

 

【何故起こる?】

 

みんなで決めると、「失敗しても自分ひとりのせいじゃない」と思ってしまい、責任感が薄れるから。

派手な意見や大胆なアイデアが目立ちやすく、それを提示することで自分が主導権を握れた(中心になれた)気持ちになるからです。

 

【対策のヒント】

 

・もし失敗したらどうなるか、をみんなで考えてみる

・反対の意見や慎重な意見もちゃんと聞く

・誰がどんな意見を言ったかをメモ、あるいは録音

・「みんながやるから大丈夫」と思わず、自分の気持ちや考えも大切にする

・信頼できるひとの意見を求める

 

錯誤相関

 

本当は関係がないことなのに、関係があると思い込んでしまうこと。

 

【具体例】

・雨男、雨女

・○○した時に限って、●●が起こる

・A型の人は几帳面

・ジンクス

 

 

【何故起こる?】

 

人は特別な出来事や目立つこと、感情に訴えることを強く覚えてしまい、たまたま重なっただけのことを「関係がある!」と勘違いしやすいから。

 

【対策のヒント】

 

・たまたま、何度かタイミングが重なったのではないか、データを自分でとってみる。

・ほかの信頼できる人に聞いたり、本などで調べてみて、事実かどうか確かめる。

 

ピーク・エンドの法則

 

人は何かを体験したとき、その全部を覚えているわけじゃなくて、一番楽しかった(または辛かった)瞬間(ピーク)と、最後の場面(エンド)の印象で、その体験全体を思い出す傾向のこと。

 

【具体例】

・ルールを作られた当初は嫌な感情を抱いたはずなのに、ルールを緩和されると、そのルールを作った相手に感謝の感情を抱く(今日から毎日5回思い切り殴るからな→やっぱり1回に減らしてやる→「ありがとう☆」)

・映画を見て、途中は普通でも、クライマックス(ピーク)とエンディング(エンド)がよければ、「面白い映画だった」と思う

 

 

【何故起こる?】

 

人の脳は、全部の出来事を細かく覚えるのが苦手なので、特に大事だと感じた瞬間(ピーク)と終わり(エンド)の場面だけを強く記憶するようになっているからです。

 

【対策のヒント】

 

・何かを思い出すとき、「本当に全部がそうだったかな?ピークやエンドだけで決めつけていないかな?」と考えてみる

・イヤなことがあったときも、最後を少しでも楽しく終わらせる工夫をすると、その体験全体の印象が良くなりやすい

・楽しい思い出を作りたいときは、「一番盛り上がる瞬間」と「終わり」を大事にしてみる

 



以上、
このように〇〇バイアス、●●バイアス、と細かく分類していく行為は、それこそがバイアス(偏り、捉われ)を生む行為であることに気づく必要があります。本当の意味での自由を求めるならば、再度、中心を求めることが必要です。

 

バイアスがかからない方法

 

様々な認知バイアスについて調べていくと、大抵そこに書かれてあるのが、

人間、生きている以上、誰しも例外なく、必ずなんらかのバイアスがかかっている、

という事です。

冒頭で述べましたヒヨコの刷り込み、教育によるバイアス、

大人や、周囲の人物からの感情的な抑圧、あるいはその逆に、

過剰な愛情により形作られたバイアス。。。

そもそも何故、バイアスというものが存在するのか。

はたして僕らに、バイアスがまったくかからない生き方はできるのでしょうか。

 

バイアスとは偏り

 

バイアスとは「偏り」を意味します。

偏っているからこそバイアスがかかっている、ということですね。

 

 

そこで必要になってくるのが中心です。

中心が存在してこそ、偏りの認識が可能となるからです。

もちろん価値観は人それぞれ、様々。中心の設定もいろいろあっていいでしょう。

だけど、

中心が間違っててもいいから、とりあえず設定しないことには、

モノサシとしての機能を果たせないことは、なんとなく理解できると思います。

 

とりあえず設定しておいて、失敗したり、成功したり、

試行錯誤するなかで、あなた自身の中心を定めてゆく。

ちょっとやりすぎたなぁ、とか。

もうちょっと、やったほうが良かったなぁ、とか。

あなたなりの「ちょうどいい」がだんだん定まってゆくのです。

山はどこから登っても、あきらめさえしなきゃ、いつかは頂上に辿り着くように、

中心の設定に正解などないのです。

一斉によーいドンで始めるわけでもない山登りに、

お前はまだそんなとこ登っているのか、なんて優劣などないですよね。

中心がなかなか定まらなくても、人と比べて焦らなくて大丈夫☆

 

ただ生きていくヒントとして、先達が与えてくれる情報というものがあります。

 

長い歴史の中で、生老病死の苦悩を越えようと、

多くの聖者が答えを求めてこられた、そのなかで、

やはり真の中心は「」、言い換えるなら「」、それしかないのではないでしょうか。

神様を心の中心に置くことで、あらゆる苦悩を越えていけるんだよ、

と教えてくれたのが、お釈迦様ですね。

 

生老病死の苦悩を越える道を求め、何年も何年も苦行を重ねられたお釈迦様。

己の身体を極端に痛めつける苦行の、その先に本当に悟りはあるのだろうか。

人々を救いたいと求めてきたはずなのに、

誰もが出来ないであろう、この苦行の先に、救いなど存在しないのでないか、

と、お釈迦様は苦行の道を捨てられます。

衰弱された身体で山をおり、川で沐浴をされ、菩提樹のほとりにて休まれました。

そこへ村娘スジャータが通りかかり、その衰弱しきったお釈迦様の身体を心から心配したスジャータは、

牛乳で炊いたお粥を、お釈迦様に与えられたそうです。

そのおかげで生気を取り戻されたお釈迦様は、菩提樹のもとにて瞑想に入られ、

ついに悟りを開かれます。

あらゆる苦悩の原因は自分の心の中にある。

その苦悩を越えるには中道(極端を避ける道)を求めよ、

とされたのでした。

誰もが知っている、有名なお話ですね。

 

僕なりに現代風に言い換えさせて頂くと、

バイアスがかかっているからこそ、苦悩が存在するのであって、

中道(中心)を求め、バイアスを越えてゆけば、あらゆる苦悩は消えてゆくのである、

とお釈迦様は悟られたのですネ。

 

奈良法隆寺五重塔は中心を心柱が各階層、貫いて存在します。

五重塔は、本来、卒塔婆の思想を体現したものであり、

卒塔婆とは、サンスクリット語の「ストゥーパ(stupa)」を音写していて、

もともとはお釈迦様の御遺骨(仏舎利)を納めてその上に築いた仏塔を指す、とのこと。

卒塔婆の思想とは、

仏教の五大思想で、宇宙や万物は「地・水・火・風・空」の五つの基本要素から成り立つ、

という仏教の宇宙観です。

この心柱。実際の所、本当にどういった役割をしているのか、科学的に解明しきれてはいないそうです。

確かに、心柱が制振ダンパーのような役割を果たしてはいるものの、

心柱のあるものと、ないものの模型を用いて、耐震実験を行ったところ、どちらも崩壊することは無かった、

とする実験結果もあるようで、本当のところは科学でさえ解明しきれていない、

それが真実であるようです。

一部の説では、この心柱は、諏訪大社の「御柱祭」と同様の柱信仰によるものとする考え方もあるようで。

これもまた、僕の妄想の範疇でしかありませんが、

法隆寺を建立したとされる聖徳太子はこの五重塔に、

仏教伝来以前より日本に存在した神道的な信仰と、仏教の融合、

真釣り合わせを象徴、我が国が永久(とこしえ)に続くことを願い建てられたものであると思っています。

神道の神を中心に、仏教の思想をまつり合わせられたのだと。

縦に神の世界がパラレルし、横の各層に僕ら自身がそれぞれ存在する、その真理を象徴されたのだと。

 

考えてもみれば、昔の人が、耐震のことなど科学的にわかりようもない、と僕は考えます。

であるなら、科学的なことを知ってはいなくても、

真心を込めてはたらく、生命を大事にする、モノに八百万の神が宿るとし、モノを大切にする、

そこを追求してゆくことでも、永遠と無限(真の科学)に近づくことは出来る。

幾度の大震にも揺るがぬ五重塔のように。

愛を、神を、突き詰めていけば、真の科学に辿り着く、証拠であると、

法隆寺五重塔こそ富士山にならぶ日本の心の象徴(中心)、僕はそう思っています。

 

ちなみにこの五重塔の基礎石に存在する仏舎利(お釈迦様の骨)は6粒だそうです。聖徳太子が、はたして、「6粒だけ手に入ったから6粒だけ入れとこう☆」とされたでしょうか。僕は6という数字に意味があると思っています。五大思想の「地・水・火・風・空」の5。残る1は神であるお釈迦様自身であり、聖徳太子であり、あなた、でもある、これが僕の考えであり、妄想であります

 

中心といえば、

日本古来の武道においても中心を大切にします。

武道における中心とは、丹田と云われる、お腹のあたりですね。

ここを中心に動くことで力もエネルギーも湧いてくるのだとされますが、

当然、

丹田を教えられた瞬間、強くなれるわけではありません。

丹田を意識しながら、何日も何年も、何十年も稽古を重ねる、その中で、

技が磨かれ、強くなれます。

真の中心がわかってくる、丹田が磨かれる、のですね。

 

それと同じで、

まず心の中心をあなた自身が決めなければなりません。

あなたの心の中のこと。

他の誰かが決めようもないのです。

あなた自身で、まず中心を決めること。

そこから全てが始まります。

木を切り、水を運ぶ』(有名な禅のことば)

です。

悟ったからといって、神を見たからといって、生老病死が消えてしまうのではない。

日々の生活はなんら変わりはない。

僕ら自身のモノの見方、考え方を変える、言い換えれば、

生老病死は変わらず訪れるが、

バイアスを越えてゆくなかで、生老病死の受け止め方、

生老病死を苦悩と感じる、その苦悩そのものが消えてゆくのだ、と。

だんだんと中心が定まってくるのだ、磨かれてゆくのだ、と。

古くからの聖者たちは説きます。

 

「神様なんているものか!」

と唯物論に走るのもいいでしょう。

中心さえしっかりしていれば、それは大いなる学びとなります。

あれこれ思い悩んで、結局何もしないより、飛び込んで失敗したほうが、

よっぽどマシ。

失敗した、と感じることができるのは中心が定まっているからこそ、です。

失敗の道、そのものを肯定してしまっていては、

失敗を失敗とも思わず、その道を走り続けるでしょう。

 

武道やスポーツにおいても、ムチャをする人間のほうが上達が早かったりしますよね。

しかし、ムチャばかりでは身体がもちません。技も乱雑となります。

冷静と情熱のあいだ。

あ、間違えた。 (*´ -`)

丁寧とムチャの間。

要は、中心の本質が理解できてないと、更なる上達は難しくなるのです。

 

 

例えば、仮に、お釈迦様の中心からハズレた、左肩あたりに正常性バイアスと、

確証バイアスがかかってしまう領域が存在する、とします。

 

 

ふたたび仮に、僕の心が、中心からズレ、(5,5)の位置にあったとすると、

僕は正常性バイアス、確証バイアスにかかりやすい人間ということになります。

ただ中心さえ理解できていれば、

これらバイアスのかかった出来事を日々経験し、(-5,-5)に中心を設定してみたり、

行ったり来たり、反省するなかで、だんだんと中心(0,0)が定まってくるのです。

 

ひとつ、

僕らが気をつけなきゃいけないことは、

バイアスはかかるだけでなく、かけてしまうということ。

(批判されるだけでなく、批判してしまう)

この場合の例でいうと、確証バイアスにかかりやすいと同時に、

他者に対しても、確証バイアスのフィルター越しに対応してしまい、

確証バイアスのかかった批判をしてしまう、

他人を批判した内容が、そのまま自分にもあてはまる、

批判していることを、実は自分もやっている、

ということ。

もちろん、

重い罪を犯した犯罪者を非難したところで、その重い罪を同様に自分も犯しているのだ、

とまでは言いませんが、

その感情はどこから何故わきあがったのか、小さくとも似たような罪を犯しているのでは、

と、瞬々刻々、内省してゆく必要があると僕は思うのです。

もっと分かりやすい例でいうと、

「お前、言ってることと、やってることが違うじゃねーか」

となる、ってこと。

自分が批判した同じ内容で批判され、苦しむ羽目になります。

人間関係あるあるですね。 ヽ( ´ー`)ノ

他人の矛盾には気づけても、自分の矛盾には気づきにくいもの。

そこでその批判を素直に受け止めることができれば、おおいなる学びへとつながり、

だんだんと己の中心が定まっていきます。

バイアスさえとれてくれば、無用な感情はわかなくなるものです。

批判ではなく、相手を糺す。

相手を糺すことで、己も糺す事が出来る。

揉め事はよくない、と、

見てみぬふりをするのではなく、声をあげることは必要。

批判しあうのではなく、お互いよりよくなっていこうよ、

そういった人間関係が理想ですし、

あなたがそういった存在であれば、周りもそう変わってくるのです。

 

僕が言いたいこと。

それは、

(0,0)こそ、お釈迦様の説かれた悟り。

中心が定まっていれば、その批判する感情、苦悩は起こるはずがないのです。

五重塔の心柱が各層の中心を貫くが如くに、

神様の中心とあなたの中心とがに真っ直ぐ貫き、

世界の中心、国家の中心、社会の中心、と、

に己の中心がそれぞれと相似してこそ、僕らは真の平安を得ることができるのです。

 

中心を取り戻そう

 

僕らは皆、誰もが例外なく、

生まれた時は、(0,0)で生まれてきます。

それが、だんだんと中心からハズレてしまう理由は、

冒頭より、ここまで述べてきました通りです。

 

僕の先生はよく、こういう表現をされていました。

みんなトンネルを掘っているようなものだ、と。

神々が天降り、トンネルを掘っている。

トンネルさえ完成すれば、平和になるのだ、と。

だけど、掘り進めるうちに、泥にまみれ、己の輝きを失ってしまった。

トンネルを掘っているのだから、身体が泥まみれになっちゃうのは当たり前なのだけど、

それをお互い、「お前汚ねぇーじゃねーか!」と罵り合ってる。

泥で本来の輝きが見えなくなっているだけなのだから、

汚くなって当然なのだから、みなで励まし合いながら掘り進めるんだよ、と。

 

 

再び、この図を。

モザイクがかかった部分。

これは感情です。恐れ、不安、怒り、苛立ち。

感情が強いほど、この部分は濃く、広く、なります。

 

例えば、

特定の個人をコントロールするには、感情で怒鳴りつける。

そうすることで被支配者の心にモザイクがかかり、中心がズレます。

こうして、中心を奪うことで、バイアスがかかるのです。

あるいは同じ空間に、機嫌の悪い人がいると、皆、その人の御機嫌取りをしたり、

機嫌を損ねないよう気にかけますね。自分の心の状態ではなく、他人の心の状態を気にする。

この状態も自分の中心を奪われた状態です。

相手の感情に心奪われているのですから、当たり前といえば当たり前ですが、

誰もが皆、この中心を奪われている状況を、

また、

自分が感情的になることで、他人の中心を奪ってしまっていることを、

意識せず、過ごしています。

 

支配と服従。

己の欲求を満たすために、誰かを支配する。

人類が(0,0)からハズレてしまった根本原因ですね。

敵を支配するために、暴力で従わせる。

思い通りにならない子供を、怒鳴りつけコントロールする。

被支配者側も、当初は自然と(0,0)に戻ろうとするのですが、

支配者と被支配者が同じ環境に居ることで(もつれ)、支配者の感情が己の感情になり、

己の中心が支配者のものとなり、支配者の御機嫌取りをするようになったり、

相手の価値観を己の価値観であるかのように振舞うことで、支配者を喜ばせたり、

支配者が喜べば、己も喜び、機嫌が悪ければ、ビクビク恐れ、

感情が鏡のようにリンクし始めます。

そうして、被支配者が支配者から逃れることを明らめ、

価値観や感情の共有を始めたら、支配の完成です。

意外に感じられるかもですが、

この場合、支配者といえども、服従されることによって、

欲求を満たしてくれる相手に依存しているのです。

共に中心を完全に奪われた状態、これが共依存ですね。

そうです。支配者とて中心を失っている、これが真実です。

(5,5)の行為ができるのは、心が(5,5)の状態にある者のみ、ということ。

だからこそ鏡のようにリンクすることが出来る。

言い換えれば、支配者とて、はなから中心が(5,5)に奪われた状態であったということです。

 

さて、本当の中心はどこに行ったのでしょう?

支配者の中?

いえ。中心は愛のはず。中心(愛)が支配者に移ったなら、

暴力で中心(愛)を奪った相手が、愛ある存在になってしまい、道理が通りませんね。

どこへいったのか、僕が思うその答えは、後程述べたいと思います。

 

再び上の図に戻りましょう。

 

感情的に怒鳴りつけることで、モザイクがかかった領域(5,5)を被支配者から奪うことができるのは、

先ほども述べた通りです。

合わせて、

(0,0)あるいは、他の領域の所有者から遠ざけ情報を遮断することで(部外者と交流させない)、

中心を自覚させないようにする。

そこへ暴力による恐怖で、モザイクがかかった領域を奪う。(鞭による手法)

こうして共依存の状態となれば、洗脳の完成です。

  

また、この鞭の手法とは別に、

色、金、地位、承認欲求、老いたくない、いつまでも生き長らえたい、など様々な欲を利用し、

中心を奪っていく、飴による手法も存在します。

 

老子の格言「授人以魚不如授人以漁」。

人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣り方を教えれば一生食べていける、という意味です。

得てして、人間というものは楽に流れがちで、自分で釣り方を学び、自分で魚を釣るよりも、

黙って口を開けていれば、魚を与えてくれる方になびいてしまいます。

この場合の魚とは、色、金、地位、承認欲求、老いたくない、いつまでも生き長らえたい、

という欲望ですが、この欲を持たない人間など、ほぼ存在しないのではないでしょうか。

 

色も、金も、地位も、承認欲求も、老いたくない気持ちも、いつまでも生き長らえたいという思いも、

根本には、自己保存の本能(死から逃れたい本能)があるのです。

お金さえあれば生きるに困らない。

そのお金を得るには地位さえあれば。

この地位さえあれば楽に生きていけるのでは。

性欲の奥には、生命をつなぎたいという根源的な欲求があり、

言うまでもなく生老病死の苦悩の底にも、

本能的な死への恐れが存在します。

 

そう。

僕らがバイアスがかかってしまう、その根本原因は、

すべて死への恐れに帰結するのです。

 

その死の恐怖から遠ざけてくれる(忘れさせてくれる)飴(欲)で心の中心を奪い、

ひとつの集団に育てあげ、

その集団の力でもって、他集団を暴力で支配(鞭)し、他集団の中心を奪う。

その他集団の人々の心の中心を、ふたたび飴で奪い、より大きな集団に育て上げる。組織の強大化ですね。

その集団の中に、(0,0)あるいはそれに近い領域(愛)の所有者が現れ、

支配者のやり方に異を唱えようものなら、

支配者が暴力を用いて、この者を服従させずとも、

支配者の心にリンクした集団の同調圧力によって、

集団自ら、集団の為を想い声を上げた愛ある存在の中心を奪ってゆく。

その中でも、

同調圧力によっても屈せず、中心の確固とし歯向かってくる者にのみ、鞭による手法を使う。

これが人類の歴史ですね。

 

先程、先延ばしにした、中心はどこに行ったか、という答え。

僕の先生はこれについても、また、こういう表現をされていました。

太陽の輝きを雲が覆い隠してしまうかのように、

雲が太陽を遮ってしまうけど、太陽そのものが無くなってしまったわけじゃない。

だから慌てなさんな、と。

中心は変わらず僕らの中に存在しているのです。

ただ僕らの中心の輝きを遮ってしまうかのように、

分厚い雲が存在しているだけのこと。天岩戸の神話ですね。

 

僕らはその岩戸を開き、中心を取り戻さねばなりません。

 

あなたやキミの中心。

日本の中心。

そして人類の中心を。

 

中心の取り戻し方

 

本来、この中心の土台(基礎)となる部分は、教育により養成されていました。

神話を教えることで。

歴史上の偉人(英雄・ヒーロー)の功績を学ぶことで。

これらは戦後、GHQにより禁止され、

現代では、日本人自ら、軍国主義教育につながるとして忌避していますね。

あるいは、日本の昔話にても日本の心、

日本人としての中心は養成されるのですが、最近は昔話も放映されなくなりました。

中心を奪われた大人達が、子供たちを教育する。

中心がしっかりとしていないから、「北風と太陽」の物語の様に、

力ずくでしか、ルールを強いることでしか、

僕ら大人は子供たちを導く術がわからなくなっています。

 

大人達が中心を奪われているから、

憧れる大人、尊敬できる大人が存在しない。

かっこいい大人がいれば、子供たちはその大人に憧れることにより、

心の中心とするのです。

ヒーローもののテレビ番組も、昔はウルトラマンや仮面ライダーなど存在しましたが、

現代では、主役がひとりだけではなく、複数のヒーローが共演するスタイルが、

一般的となりました。

なんだろう、、、良いような悪いような。 ヽ( ´ー`)ノ

昔はもっとヒーローってわかりやすかったですよね。

かっこいい大人、尊敬できる大人がいないから、

子供たちの価値観はブレブレで、将来の夢も、公務員なんて漠としたものになっています。

 

僕の子供の頃のヒーローといえば、ジャッキーチェンでした。

強くて優しくて、笑いも忘れずw悪に立ち向かう姿は憧れたもの。

母の教えにより、僕の中心の根っこには神様がいたものの、

子供時代の表面的な?中心はジャッキーチェンでした。

ジャッキーを中心に据えるw憧れる。

だから大人になった今でも、僕の身体能力は同年代に比べ高いです。(笑)

強くなりたいという気持ちも、正義感も、すべてジャッキーが教えてくれた、

といってもいいくらいです。

そのジャッキーチェンが、今や、中国政府にペコペコし、

あれだけ親日的だったのに、日本政府を批判していますね。

ボクの中心を奪った中国政府。

な、なにしてくれとんじゃー!

ってな感じですが、ジャッキーチェンといえども、

中心を奪われてはどうしようもない、ということでしょう。

 

話がそれました。元に戻します。

  

教育で中心を教えることも禁忌され、

中心そのものである信仰心もない、

かっこいい大人も存在しない、

となると、子供たちはどうしたらいいのでしょうか。

現代っ子の人間関係について、話をきいてると、

善悪の観念、して良い事と悪い事の判断、それがどうもよくわかっていないようです。

その行為でどれだけ人が傷つくか、といったことも、想像がつかないようです。

思えば、僕ら大人達が分かってないのだから。

分かっていない事さえ、分かっていないのだから。

その大人達に育てられたなら、当然の結果ですね。

 

だから、君たち子供は自由に生きたらいい。

すべては大人の責任。

子供たちをなんでも自由にさせたら、悪い方へいってしまうのでは、罪を犯してしまうのでは、

なんて言わせない。

さんざん僕ら自身、悪い方へ、罪を犯してきたではないでしょうか。

その客観視の出来ていない大人が偉そうに。ヽ( ´ー`)ノ

万が一子供たちが罪を犯したなら、それは僕ら大人の責任なのです。

 

中心を奪われたままの僕ら大人達は、

人の気持ちを蔑ろにし、食う寝る遊ぶにかまける。

周囲の人間がどれだけ振り回されているか想像できない。

むしろ振り回すことで周囲がアタフタとする姿を、

同調し愛されているのだと思い込み安心する。

子供同士のイジメの問題も、

その大人の背中を見て子供達が真似ている、学んでいる、だけでしょう。

子供たちの教育の心配ではなく、

大人達の教育が優先事項です。

なにより大人達が先に、中心を取り戻さねばなりません。

しかし大人達に、神話や英雄譚での教育など、最早手遅れなのは自明の理、ですね。

瞑想もこの状況では意味をなさないでしょう。

であるなら、実地で学ぶ必要があります。

 

そのためには、これまで何度も述べてきましたように、

祈ることで中心を客観視できるモノサシを作り、

はたらく(人類に貢献する意味合い)ことで中心を定めて行くとこです。 

武道に落としこんでいえば、

力に頼らない圧倒的強さを求めることで、丹田が意識でき、

稽古を重ねる中で、技が磨かれ安定してゆくのだと思います。

 

 

中心を取り戻す方法として、祈りの他に、

この方の意識の用い方をオススメします。

僕には難しそうで未だしっかりとチャレンジしたことはないですが、

(動画はしっかり観させて頂き、僕自身の意識の持ち方に落とし込めるよう、僕も学んでいます)

下手に瞑想やマインドフルネスとやらにチャレンジするよりも、

この方のやり方はよっぽど役に立つと僕は思っています。

以上、中心の取り戻し方、でした。

 

『わからない』が正解

 

情報の本質を求める為、

僕が実際に行動し、哲学的思索(妄想)を重ねていくなかで、

辿り着いた答えは、

あらゆる情報の真偽は「わからない」が正解

(現在正解の出せる科学でさえ)

ということです。

 

たとえば、僕が冒頭で語ったお三方。

僕の情報の取り方は、新聞記者のように、コンタクトを取り、人物を訪ね、いきなり取材、

といった段取りではなく、

親交を重ねるなかで、本人が自然に語ってくれたものです。

コレについて聞かせて欲しい、アレについて、、、

なんて尋ねかたではありません。

 

おひとりは、料理の腕に長けた方で、あの吉兆でも修行された方でした。

僕が仕事について悩んでることを知ったその方は、

「俺は弟子は取らないけど」と、

それでも料理人を目指すうえで困ったことが、あったなら、と、

僕に電話番号をメモ書きして渡してくれました。

また、別のある方とは家族の食事の場に呼ばれていき、

子供さん達とゲームをして遊んだりしました。

 

それでも、です。

 

そこまでしても、です。

 

彼らが僕のような青二才(当時)に真実を話してくれたと思いますか?

それはわかりっこない。

真実を確かめようがない。

彼ら自身、真実を知ってると思い込んで語っているかもしれない。

僕が誤解して聞いているかもしれない。

もっと言えば、僕は今、あなたに嘘を吹き込んでいる可能性だってあるわけです。

 

いわんや新聞記者をや。です。

 

たとえば。

あくまでもたとえば、あなたが犯罪者だったとして、

いきなり訪ねてきた、見ず知らずの新聞記者に真実を話す気になれますか?

 

いや、

愛すべき身近なひとの真実さえ、僕らは知らないのではないでしょうか。

 

僕は父親とは仲がよくありませんでした。

それが自分が父親となった今、

僕が子供だったあの時、僕の父親がしてくれたことは、

こういった意味だったのか、となんとなく理解できるようになって。

 

父親はボクのことを嫌っているんだと思い込んでいた自分。

誰もがそうであるように、遊ぶことが仕事だった子供時代。

当時のボクがそうであったように、父親も楽しくて外に出かけていく(仕事)と、

当たり前のように思い込んでいた自分。

本当はいろいろな我慢に耐えながら、僕らを養う為に働いてくれてたこと。

それが子供のボクには理解しようがありませんでした。

僕の高校時代、父親がお小遣いを手渡してくれるようになって。

なんで、いきなり優しくなったんだろう。

僕はそんな風に思ってしまってました。

そう。

子供時代のボクにとって、

父親は朝早く、どこか楽しいとこへお出かけして(仕事)、夜暗くなる頃に帰ってくる存在。

ただそれだけの存在でした。

お菓子やオモチャ、本の読み聞かせ。

子供にとっての喜びを運んできてくれるのは、全部母親で。

お客に怒鳴られながら我慢して仕事をしている父の姿を、

高校時代に目の当たりにして、

父親がどれだけ報われない思いでいたのだろうか。

どれほどに寂しい想いをしたのであろうか。

ボクにお菓子やオモチャを与えてくれるのは母親だけでなく、

父親の存在もそこにあったこと。

それが子供のボクには理解しようがありませんでした。

仕事ばかりでたまの休みには釣りに出かけてばかりだと、

騙されて結婚したのだと、

母親から父親批判を聞かされるボク。

父親が雇っている女性の子供が、何故か、ボクの父親のことを「おとうさん」と呼んでいたり。

父親にハナから家族への想いがなかったから、家族みんなが距離をおいたのか。

はたまた、

家族が距離をおいたから、父親も距離を置こうとしたのか。

卵が先か鶏が先か。

父親が亡くなった今となっては真実など分かりようがありません。

いや、過去に戻ろうが、今を生きるドコの誰にたずねたところで、

永遠に真実などわかりっこないのです。

 

こんな風に、父親の気持ちを理解しようと努めるにつれ、

ぽつぽつと想い出すことが出来るようになった記憶。

一緒にカブト虫を捕りにいった想い出。

父さんと一緒に水晶を探しに行った楽しかった記憶。

父さんはあまり遊んでくれなかったはずの記憶が、

遊んでくれてる記憶もあることに気づき。

今、僕が子供のことを心から愛おしく想う時に出ている声の響き。

この声の響きに聞き覚えがあることに、ふと気づくのです。

それは父がボクの名前を呼ぶ声の響き、そのものでした。

なのに。

どうしてあそこまで毛嫌ったのか。

 

僕を養子に欲しいと、登場する叔母の存在。

叔母によるオモチャのプレゼント攻撃。

夏休み中、叔母のいる岡山に滞在。

怒る父親。

叔母に懐いてしまう幼いボク。。。

あんたは子供時代、その所為で何をしても許されると思い込み、

我が儘だったと僕を責める姉。

幼いボクに何ができたって言うのだろう。

大人達がしたことを棚にあげ、なぜボクだけ責められるのか。

本当にボクのせいなのかな。

ボクの存在が父さんを苦しめてたのだろうか?

もしかしたら、そうなのかもしれない。

自分を正当化したいだけ?

でも・・・

 

わかりっこないのです。

 

「もつれ」に「もつれ」てんだもんな。

わかりっこない。

 

なのに人は、自分が真実を知ってると信じて疑わない。

愛する家族の真実さえ知らないというのに。

 

誤解、分断というものは、そこから始まるのではないでしょうか。

 

だから批判などできっこないのです。

わかったようなくちぶりで断定などできないのです。

 

歴史における資料においても同様です。

こんな資料があるのだから、事実だろう、と断定するのは間違いです。

資料といえども、人間が作ったもの。

必ずそこにその資料を制作する意図(チェリーピッキング)が入り込みます。

この世は勝者の歴史です。

悪意をもって制作された資料かもしれない。

歴史小説を作る際にも、膨大な資料を読み込んで、

そこから登場する人物の人柄を想像するしかないのです。

ゆえに、

そこに書かれている人物像が、真実ではないのは分かりますね。

 

科学においても同様です。

未来からみれば、今の科学は非科学。

でも現代科学の信奉者は、現代科学から大きくハズレ、

未来の科学を夢見て志す人々を非科学だと批判します。

矛盾ですね。

科学が進歩し、新たな電磁波が発見されれば、新たな実験装置も制作され、

非科学が科学となります。

科学の云う正解など、常に変わってゆくのです。

常に、時代を越えて変わらない科学こそ、本当の科学ではないでしょうか。

それが今の科学で(現代の実験装置で)わかるわけがない。

それが理解できず非科学だと批判するのだから、

ノーベル賞をとっても、バカはバカ、なのですね。

ヽ( ´ー`)ノ

だから、著名な科学者が専門家が言っているのだから、

と、即、信じてしまうのは誤りです。

科学者でなくても、

専門家でなくとも、

中心さえしっかりしていれば、物事の理は判断できます。

 

権威などクソくらえ、なのです。

あなたの中心を取り戻してください。

権威に、誰かに、頼ってばかりでは、強くはなれません。

賢くもなれません。

そこに学びなど無いのです。

本来のあなたは威厳ある存在。

中心さえしっかりしていれば、ムチャをしたっていい。

時に、丁寧すぎるくらいに丁寧に実行するのもいいでしょう。

そうやって、楽しく自由に経験してゆくなかで、

中心が磨かれ定まってくるのです。

 

森羅万象を判断できる叡智は、権威や科学者に頼る必要など、本来ないのです。

なぜなら、彼らも非科学だから。

僕らも含め、彼らも又、正解ではないからです。

 

あなたの中心を信じ、日々経験してゆくことで、

中心を定めてゆく。その行為こそが正解であって、

情報のなかに正解など存在しない、

「わからない」が正解、なのです。

 

情報の止揚・昇華

 

ここからは抽象度をあげ、△〇□のシンボルで情報を語ってみます。

専門的に分析していく行為とは真逆のその先に、

もっとシンプルに考えていった、その先に、

(具体的→抽象的)

僕らの大事にしなければならないものがあると思うからです。

 

△〇□のひみつ

 

合気道の稽古においては、

三角に入り(入り身)、丸く捌き(転換)、四角く納める、

コトを意識するように、と先生によく言われました。

△に相手の懐に入り、〇く螺旋に技をかけ、□く相手を抑える、

そのように意識して稽古するように教わります。

△は火、

〇は水、

□は土、

を表し、火(ひ)水(み)土(つ)、これが極意だよ、と。

(さっきは火水カミだったのに、今度は火水ヒミで、

 やや強引、コジツケ感は否めないですが・・・ ヽ( ´ー`)ノ )

 

太陽と月、

これを日本の神様(三貴子)に重ね合わせると、

天照大御神(太陽)と月読命(月)ですね。

では残る一人、須佐之男命はというと、

海原を司るとされています。

 

太陽と月と海原。

  

子供の頃、複数の動物の絵の中に、乗り物の絵がひとつあるのを見て、

仲間ハズレはどれでしょう?

みたいなクイズがありましたが、

太陽と月は惑星なのに、須佐之男命だけが海原、

明らかに仲間ハズレですね。

「地球」を司るのであれば、同じ惑星、仲間入りできそうなのに。。。

科学が未発達だった太古の昔に、

地球という私達が寄って立つ星を、客観視(観測)出来なかった事が影響してるのかもですが、

須佐之男命だけが、動き(暴風雨とも)を司っています。

何故でしょう。

 

太陽は「ひ」、

月は「み」、

海原(風雨)は「ふー」。

ひーふーみー。

「ひ」の陽と、

「み」の陰を

「ふぅ」の呼吸で結びつけ、

より良いものへと昇華させてゆく、

止揚、まつり合わせてゆく。

それはまるで、温かい空気が軽く上昇し、

冷たい空気は重く下降することで、そこに動きが生まれ、

調和(まつり合わせ)が促される事に似ています。

  

これが須佐之男命の役目であって、

大事で、

とても大切な役目であって、

決して仲間ハズレなんかじゃないよ、

とするのが神道の思想です。

 

試みに、△(陽・ひ)と○(陰・み)を、ふぅーっと、真釣り合わせてみる 

  

きっと、陰と陽を宇多田ヒカルさんが表現すると、こんなPOPな感じになるのかな、と僕は思います

 

宇多田ヒカルさんの『Mine or Yours』。

この歌の夫婦別姓に関する歌詞が少しばかり、炎上騒ぎとなりましたね。

SNS上のコメントは酷いものでした。

保守的思想の方々が、いろいろなこと(崩壊してゆく日本文化や移民問題等)を心配しての攻撃的な書込みのようでしたが、

僕が思うに、

客観的にみれば、その攻撃性もまた日本の未来にとっては、心配の種なのではないでしょうか。

 

衆議院議員の原口一博さんのYouTubeで初めて知ったのですが、

夫婦同姓制度は明治31年に始まったものであり、日本の昔から続く伝統ではないのだとか。

江戸時代の侍達は、一部の例外を除き、夫婦別姓。

女性は結婚しても、生まれた家の姓をずっと名乗り、

生まれた子供たちは男の子も女の子も、男性側の姓を名乗っていたようです。

これは封建的な意味合いの強い「夫婦別姓」ですね。

海外では、男尊女卑の思想から、男の姓を名乗らせない、

そんな国も存在するようで、「夫婦別姓」という言葉ひとつにも、

陰と陽、善と悪、光と影、入り混じっているのが分かります。

 

移民によるなりすましの問題を心配している人たちの気持ちはよくよくわかります。

移民を大量に受け入れたことによる、

スウェーデンを筆頭にした、ヨーロッパ諸国の治安悪化。

特に女性や子供達が、凶悪な犯罪に巻き込まれる件数の増加している現状。

日本もそうなりつつあること。

日本が日本でなくなっていく。。。

これに対する憂いは、どちらかというと保守的な僕です。

キーボードを叩くだけのネット民よりも、もっともっと、それ以上に強いです。

 

僕は元々、短気な人間です。人一倍、気が小さいくせに、です。
ただ、国を憂う想い。いや、このようなありきたりな言葉を使うと嘘っぽく聞こえちゃいますね。僕らしい拙い言葉に言い換えます。
ただ、僕は、子供の頃に父と魚釣りに行ったり、弟とカブトムシを捕りに行ったり、家族みんなで蛍を探しに行った、その風景を壊されたくない。想い出を穢されたくないのです。そうして家族ができた今、僕の子供たちには何の憂いもなく平安に生きることの出来る日本であってほしい。そんな個人的想いが根幹にあります。世界平和とかみんなの為、なんて高尚な想いは二の次です。ごめんなさい。でもそこを突き詰めていくと、その願いは、どうしても世界が平和でなければ成り立ちません。日本という国家にもっとシッカリしてもらいたい。その気持ちが強いばかりに、僕は時々、妄想するのです。他人を蹴落とすことを何とも思ってない売国奴たちと対峙し、でも売国奴とはいえ人を傷つけたくはないから、究極の自分原因論で腹を切り、その痛みに耐える為、この世のものとは思えぬ程の咆哮をあげ、その者たちの耳に永遠に焼き付け、切った腹から内臓を取り出し、顔面に投げつけてやるのだと。寄ってたかって人を批判する口だけ番長達に対する僕の怒り、気性の激しさは、それを確実にやりきる自信があるのです。その証明は僕のこれまでの生き様がしてくれるはず。何党支持だの、利権まみれの政治思想なぞどうでもいい。古くからある、日本の風景、日本の文化、日本の心。それだけは守らねばならないのです。なぜならこの星の中心だから。偉そうに聞こえたらすみません。でも、世界の平安はそこを壊してしまうと成り立たなくなることを申し述べておきます

 

SNSの保守思想の人たちは、批判するトコを間違えてはいないでしょうか。

批判すべきは、誰もが恐れて、口を噤んでしまう、そういった相手にこそ、でしょう。

たとえ、それが怖くて出来なくても、もっと強くありたいと願うなら、

僕ら自身、自分自身にその批判を向けるべきなのです。

 

自分の愛する家族が、誘拐されれば、なんとしてでも取り戻して欲しい。

心配で心配で、どうにかできるなら自分の命にかえてでも・・・

そういった被害者の願いでさえ、僕らは簡単に踏みにじる事が出来るようになっています。

車体ごと大きな穴に落ちる事故。

数カ月が経ち、最早生存は絶望的、とわかってはいても、

遺体となった姿でもいい。愛する人に戻ってきてほしい。

その想いさえ、僕らは理解できなくなりつつあるのでは、ないでしょうか。

硫黄島に取り残されたままの英霊を、ほったらかし、

北朝鮮による拉致被害者のご家族の苦悩も、慮ることなく、

喰う寝る遊ぶにかまける。

悲しみ苦しむ人の横で酒を喰らいバカ騒ぎできるその感覚。

行動するかと思えば、動かすのは指先と口だけ。

少しでも、彼らの為に行動すれば、

本当の敵は、僕ら自身、中心を奪われ人の苦悩に無関心でいられるようになった、

日本国民自身だとわかるというのに。

義の為、真実を声高に叫ぶ人を叩き潰すのは、我ら日本国民。

批判すべきは、そんな僕ら自身なのです。

 

 

行動するのはとても勇気がいることです。

その勇気を誰もがもてるものではない。

僕も勇気はなく、表立った行動はしたことはないですが、

自分が薄情(他人任せ)なのは、よくよく認識しています。

だからこそ、人は批判しない。

僕ら自身、そういう薄情な人間だということを、認識しなければ、

成長することは出来ないんじゃないでしょうか。

 

一番大切なことは、上の方で解説した通り、

移民が我が国に入り込んで掻きまわされようが、ヘドロが巻き上がらないくらいに、

キレイにすることです。

移民を遠ざけていたって、それではいつまで経っても、

地球上に心配の種(犯罪の種)が存在していることになります。

合気道家、塩田剛三の言葉、「自分を殺しにきた相手と友達になる」それが最強の技だと。

逃げるのではなく、立ち向かい、己自ら、心配の種を解消してゆくのです。

追いかけてくる犬は逃げる程に追いかけてくる。それが真理。

強い者に立ち向かえないなら、なおさら弱い者(立場上声の出せない者)に立ち向かわないこと。

それではただのイジメになってしまいますネ。

僕も、街中で嫌な言動をされ、言い返したくなる時、

まず、

相手がコワモテの人間でも言い返すのか考えます。

僕はビビりなので、これが理由でほとんど言い返せません(批判はしません)ガ。 (*´ -`)

でもこれこそが誠実な態度というものではないでしょうか。

 

批判すべきは自分自身。

誰かを叩いたって、その誰かが強くなるだけ。

自分が強くありたいなら、自分に原因を求め、自分を磨いてゆく。

そうして強くなってゆくのです。

皆で議論し、皆で強くなり、科学文化を発展させてゆけば、

殺しにきた相手をも、

僕達と仲良くせざるをえない科学力と、

私達と仲良くなりたくなる徳を、

得ることができるんじゃないでしょうか。

このことこそが日本の心なのだと僕は思うのです。

 

移民のなりすましについて、海外では、戸籍に頼らず個人の身分証明の厳格化により、 これら問題を防いでいるのだとか。何が正しくて、何が間違えているのか、「いや防げてないだろ」等の議論も大事ですが、別の観点から、例えば海外ではどう対処してるのか、昔はどうしていたのか、等、なにより皆で議論することが大事ですね。

 

果たして、科学も文化も発展した未来において、

僕らは姓を名乗っているのか。姓というものが存在しているのか。

それは誰にも分らない。

時代が変われば、正解が変わってしまうような事で諍い合うことほど、愚かなことはありません。

 

陰と陽。 

量子コンピューターが「もつれ」を利用することで、性能が格段に上がるように、

違うものが存在したからこそ、発展があったのではないでしょうか。

男と女。マウントを取り取られ。

西洋と東洋。支配し支配され。

僕らはそろそろ問わねばならない。本当にそれだけか。

支配者といえども、依存していた、側面もあっただろう。

支配し、支配され、ではなく、お互い依存していたという、

別の「情報」(見方・視点)も存在するのでは、と。

もう共依存の時代は終わるのです。終わらせねばならない。

老子の格言「授人以魚不如授人以漁」。

口を開けていれば魚を与えてくれる。その子供の如き幼い甘えから、

自立する覚悟を僕らは皆、持つべきじゃないでしょうか。

誰かがなんとかしてくれる、誰かが世界を変えてくれる、

ではなく、

僕らひとりひとりが先頭にたつ、その覚悟を決めるのです。

 

もつれによる、科学や文化の発展。

お互い対立するのではなく、同じ方向を向き、共に成長してゆく。

それこそが真つり合わせ。

止揚・昇華ですね。

 

あまり細かくこの世の事象を分類すること(言挙げ)は、捉われを生みよろしくないのでしょうが、

それでも、

この世のことを理解しやすくなるのではと思い、

試みに、これまで記事内にてに色分けした以外にも、

いろんな事象を陰と陽に分類、解説してみたく思いますので、

ぜひ、皆さんがこの世の事象をまつり合わす、

その参考にしてみてください。

 

これはあくまでも僕の主観ですが、陰と陽を意識することは、まつり合わす際(止揚、昇華)の役に立つように感じています

  

祭と政

 

「まつり」とは、

真に釣り合わせる、

調和させてゆく、△(陽)と○(陰)を止陽、昇華させてゆく行為のことです。

 

止揚とは、矛盾や対立したものを統合し、より良いものへ変えてゆくこと。昇華とは、螺旋に巡りながら、上へ上へと、より良いものへと変えてゆくこと。

 

は陽。

神を中心に据え、祈る行為のこと。

は陰。

祭祀者を中心に、はたらく行為のこと。

この祭政一致で日本を「まつり」運営してゆくことで、

日本、ひいては世界が平安なものと、なってゆくのです。

 

政治に関する情報で、僕が信頼する情報源は青山繁晴さんです。発信される情報が常に正しいとか、皆が信頼すべき、と断言してる訳ではなく、「僕が信頼する方」としていることに、ご留意ください

 

ここで、合気道の開祖、植芝盛平が祭政一致について語っているものを引用したいと思います。

 

ただ強ければよい、負けなければよい、と力と力とで争い、弱いもの小さいものをあなどり、それを乗り取ろうとする侵略主義になろうとしている、その魔を切り払い、
地上天国建設精神にご奉公をするのが、合気の根本の目的なのであります。

古から立派なものは出ていなかったのであります。
現代になって、世界はますます穢れ汚れてきたので、これを払いみそぐために武産合気が、
神の命によって生れてきたのであります。
この合気とは、この世の条理を明らかにすることなのです。

この世には、正しく真理を説く聖者の教を
民衆の前にくらますようにする六師外道のような、権力者が沢山います。
彼らは自分の権力で世を乱そうとする、
自分に都合のよいように法をつくり、世を治めようとします。
このように正しい条理は覆いかくされています。

まさしく末法の時代です。いよいよ時がきたのです。
キリスト教的にいえば最後の審判の時がきているのです。

だからこそ、いよいよこの世の条理を明らかにし、
祭政一致の本義を成立させ、日本を正しい気体と気体と、すべての気体が正しく揃って、
調和生長した処の立派な日本にならしめなければなりません。

世界は一つであります。
国の大小を問わず日本の国につどい寄ってこなければならなくなっているのです。
それには条理がキチンと整わなければいけません。
人類は地球の一番中心の中津国を忘れています。
最初の中心の国は日本なのです。

これは皇祖皇宗のご遺訓に出ていることでみなさんもよく知っていることです。
本当は自分こそ中津国なのです。
我々はそれを体得し現すために生れてきているのです。

そしてこの宇大を守りすべてを守り仲よく一軒の同じ家族として暮してゆくことです。
合気とは捨身活躍をもって、世の中にご奉公せねばならぬ道であります。

白光出版 『武産合気』

 

引用が少し長くなり、申し訳ないです。

うちの一族はその昔、宮大工を生業としていました。

だから余計に神社仏閣というものに心惹かれるのですが、

いつも僕が口にしますように、

奈良、法隆寺の五重塔は心柱が一本真ん中に存在する。

それゆえに強固です。

精神世界、心の面でも、中心がなければ真に強くはなれません。

強さは愛であり、愛は強さです。

共産主義のような中心を奪われた唯物論であっては、

中心が存在しないからこそ、

弱く、脆く、暴力的となるのです。

それは愛を知らずに育ったものが、暴力的になりがちなのと同じです。

中心(神様)があってこそ、他者とひとつになれます。

先程の座標軸と同じで、中心がなければ、物事が定まらず、検討をつけにくいのと同じですね。

常に祈ることで、「我」が取れていき、

自分を意識した時、即、「みんな」になる日がやってきます。

 

はたまた、

物質世界において、今現在、中心となっているのは、

首相という名の、利権を奪い合う人間の欲によって形づくられたハリボテの中心であります。

これを祭政一致の叶う、中心者へと取り戻さなければなりません。

多くの人が尊敬し、

多くの人が納得できる中心者へと、です。

火(か)水(み)

カミのまつり合わせ、

祭政一致の中心者、祭祀王、天皇へと、です。

 

お釈迦様とキリスト

 

お釈迦様は陽、イエスさんは陰。

 

お釈迦様は陽(男性)のはたらき。

だからあまり女性の悟りというものに重きを置かれなかった、

と先生は云われてました。

お釈迦様は釈迦族の王子だから、当然、

女遊び(←男性社会的物言いでごめんなさい)というものを散々行ったでしょうし、

ゆえに女性が持つ「魅力」というものを恐れ、

先に男性を悟らせることに専念されたのだと。

(縦の世界、精神世界の発展)

お釈迦様の養母、摩訶波闍波提夫人(マハーパジャーパティー)をはじめとする女性たちが出家を願っても、

お釈迦様はこれを拒否。

その理由として、「女性が出家すると道を誤る者が増え、結果的に救われる人が減る可能性がある」と。

誤解をうむといけないので、言葉を足しますが、

お釈迦様は悪い意味で女性を捉えていたわけではなく、

スサノオや大国主命がこの星に居着いてしまったのと同様に、

お弟子方も居心地がよくなって、「木を切り、水を運ぶ」よりも、そのままでヨシとしてしまうのでは、

と考えられたのですね。

この間をとりなし、最終的に女性を弟子とする許可を得られたのが阿難尊者です。

阿難尊者はお釈迦様の一番弟子だった方です。女性の味方ですね☆

 

イエスさんは陰(女性)のはたらき。

だから横の空間、社会活動に重きを置かれたのだと先生は云われました。

現代社会においても、キリスト教の方々は精神修養(悟る為の修行)というよりは、

人道支援、社会奉仕活動に重きを置くのだとか。

マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ヨハナ、スサンナ、

イエスさんはお釈迦様のように女性を遠ざけることなく、

行動を共にされました。

当時、西洋において、女性の地位が虐げられていたことを鑑みれば、

このことは特筆すべきことだとされます。

要は、イエスさんは「そういう目」で女性を見なかったからこそ、

多くの女性に慕われたのでしょうか。

阿難尊者にならび、イエスさんも陰のはたらき、そのものですね。

 

ちまたにあふれる様々な情報。

食に関するもの。

ゴシップ。ファッション。不動産。科学。医療。哲学。学び。

いろんな情報があふれる中で、

イエスさんやお釈迦様の語られた教え、言い換えれば、情報は、

今も色あせることなく語り継がれているわけです。

それが人間にとって一番大切にしなきゃいけない情報だからではないでしょうか。

時を経ても、変わらない情報。

遠い未来において、文字も数字さえ消えてもなお、残っている情報とは。

その情報こそ、僕らが大切にしなければならないものです。

 

神道と仏教

 

先程は、仏教のお釈迦様を陽に分類しましたが、

我が国においては、

神道が陽、仏教が陰です。

聖徳太子の時代、貧しい人々や病に苦しむ人を救ったのは、

仏教でした。

神道は究極に何もしない。

言挙げしない、これぞ神ながらなのだ、と言われれば、それまでですが。

 

何もしない。

というと悪い意味に聞こえるかもですが、

僕の尊敬する先生は、頭を空っぽにし、何もしない何も考えないことが、

最高に働いている時なのだと、語っておられました。

このことの本当の意味が、おぼろげながら、僕にも理解できるようになっています。

 

何故、神は沈黙されたままなのか。

それが神が存在しない証拠だとするのは間違いです。

沈黙は最高の愛ゆえ、だと僕は思っています。

(放置、ではなく「見守り」の意ですので誤解なきよう)

  

これも先生が語っておられたことですが、

神様といえど、経験したことがないと理解はできないのだと。

だから、

この星の経験をしたことがない神様は、この星の辛さを知らず、

その者が悟り、神の領域へと近づく為に、

たとえば片腕がないことが、その良い経験になるのなら、

平気で片腕を切り落としたりするのだと。

その間に立ち、そこまでしなくても・・・

私がなんとかしますから・・・

と間を取り持ってくれるのが、この星の辛さを経験したことのある神々なのだと、

話しておられました。

神は愛(厳しすぎ?) 、神々は情(愛情)ですネ☆

 

先ほども上の方で申しましたように、

神としての自分が、縦にパラレルしながらあなたの中に存在し、(霊)

光の二重性の如くに、

それぞれパラレルした同じ空間に、

神々としての自分も外に存在し、己を、僕たちを見守っているというのです。(仏)

(宗教の世界で云われる、守護霊、守護神)

 

僕達自身も、命も、神々も、神様も、

守護霊も守護神も、僕達自身ならば、

結局、この世に存在するのは、

僕、あなた、キミの、たったひとりだけ、ということでしょうか。

ひとりだけ、ってなんだか寂しいですがw

もしかしたら、だからこそ、陰と陽が生まれたのかもしれません。

 

それから、

仏教でも神道でも、

この世の苦しみを乗り越えてゆく為に、自分を無くす、

と言いますね。

我を無くす。

我を無くしていった、その先は、

あなたやキミが本当に無くなっちゃう訳じゃなく、

きっと、

自分=みんな

になる世界です。

 

子供の様に純粋な心のマイケルジャクソンも、神に愛されたがゆえ、早くに天国へと帰られましたネ

 

太陽と月

 

言うまでもなく、

太陽が陽、が陰、ですね。

 

この星にエネルギーを、降り注いでくれる存在の太陽。

この星の空間を整えてくれる、舞台装置の役目としての月。

 

太陽の役目は、人間が体感しやすく、誰もがご存じでしょうし、

ここでは端折(はしょ)ります。

 

月の役目は、

月の引力により、海の満ち引きを司ります。

生命の進化になくてはならない、はたらきです。

また、

地球の自転速度を遅らせ、現在の一日24時間というサイクルを安定化させているのも、

地軸の傾きを安定化し、気候が大きく変動しないように抑制してくれているのも、

月のおかげなのです。

月が存在するからこそ、

生命が安定して進化することが出来、

人間も安心してはたらくことが可能となったわけですね。

 

なお、古来より東洋医学において云われてきた女性の月経と月の関係。月経の周期と、月の周期の類似性から、そう伝えられてきたようですが、現代科学においては、明確な科学的証拠に乏しいとされ、決定的な因果関係は解明されてない、とのことです。
これは利権にまみれた人類の浅知恵により、自然が乱されているから、データまでも乱れ、明確な因果関係が解明されにくいのではないでしょうか?

 

太陽と月と。

大自然自ら、不安定になることなどありえません。

なぜなら調和が大自然の理だからです。

原子核を分裂させる核爆弾、

神様に対してでさえ、マウントを取る癖がやめられない人類が行うDNA操作。

非科学な行為でもって、大自然を不安定にさせているのは僕ら自身。

不安定をビジネスにしているのも、僕ら自身です。

ミクロを人間智でもって操作することが、フラクタル的にマクロにリンクし、

マクロを不安定にすることにつながってると僕は感じています。

 

マクロな世界においては、

温暖化を防ぐ為の二酸化炭素排出量削減と銘打ち、山や森を破壊し、

ソーラーパネルを敷き詰める訳です。

矛盾でしかない。

クリーンなエネルギー? ヽ( ´ー`)ノ

頭がおかしいとしか言いようがない。

環境のことを考えて、ではなくて、ビジネスですね。

 

優しい風が吹くのは、山や森、豊かな緑あってこそです。

逆に言えば、

風が荒れ狂うのは、クリーンなエネルギーを謳いながら森を破壊する、

僕らのその矛盾した心の所為です。

決して、

原因などなく、ある日突然おとずれる、天変地異なんかじゃない。

原因は僕らの心に宿る業そのもの。

誰かの所為にしていては、

神様や大自然の所為にしていては、

僕ら人類の成長、発展は行き詰まるでしょう。

 

豊かな緑あってこそ、優しい循環は生まれます。

きれいな水も。

命を育む土も。

みんな豊かな緑あってこそです。

 

最新の科学に似せた、非科学的行為をやめて、

森を守り、育てることが、本当の科学です。

科学の発展、科学(太陽、エネルギー)とのまつり合わせに必要なもの、

それは緑を主とした大自然(月、環境)。

文化の繁栄、真の意味での科学の発展も、緑を大切にすることで成り立ちます。

 

あとのことは、太陽と月にまかせておけば大丈夫☆

そこにあるのは優しい風が吹く未来です。

 

時間(ボース)と空間(フェルミ)

 

時間は陽、空間は陰。

量子の世界においても、

エネルギーを伝達する為の粒子、ボース粒子(光子など)は陽、

物体を構成する為の粒子、フェルミ粒子は陰。

 

物体を構成する電子などのフェルミ粒子は、その性質上、

同じ空間座標に存在することができないのだとか。(パウリの排他原理)

 

このことからも、横軸である空間(この現実世界)において、多世界解釈(パラレルワールド)は成り立たない、その方が「筋が通る」と僕は考えています

 

エネルギーを伝達する光子などのボース粒子は、同じ場所に重なることができるとのこと。

重ねれば重ねる程、その場のエネルギーはどんどん大きくなるのです。

ゆえに、

情報の伝達速度も粒子の密度に比例して増加します。

このことは縦にパラレルした世界では、

上の世界ほど、エネルギーにあふれた世界である証拠ではないでしょうか。

そして、神々の世界では、言葉の必要ない、想いが即、伝わる世界である証左、

だと、僕は妄想しています。

 

 

こちらの記事にあるように、

最近の研究で、これまで縦のボース粒子と横のフェルミ粒子しか存在しないと考えられていたところへ、

新たな粒子、パラ粒子の存在が証明された、とのこと。

ボース粒子が、天照大御神。

フェルミ粒子が、月読命。

ならば、

パラ粒子は、須佐之男命でしょうか。

はたまた、別の存在?

 

 

「悪魔粒子」とは、ナゾロジーさん命名ですが、

悪魔と名付けられているからといって、この世に必要のないものか、

というと現代科学では、未だわかりません。

なんの為に存在しているのかさえ、はっきりと分かっていないのですから。

現代科学が非科学なのか。

未来の科学が非科学なのか。

たとえ科学者ではなくとも、現代人はそろそろ本気で向き合う必要があるのではないでしょうか。

(科学者でもないクセに科学を語るな!非科学だろ!、な批判はアルアルですが、

 非科学だと批判するあなたも科学者ではないですよね、と切り返しましょう (*´ -`) )

そうでなくては、いつまでたってもバイアスがかかったまま、

になっちゃいます。

 

そう遠くない未来、きっと君たちが生きているうちに、

忖度なき、利害抜きの、真の科学が人類に平安をもたらします。

大丈夫☆

隠れていた須佐之男命が見つかったのだからw

 

こちらの記事も参考にさせていただきました

 

東洋と西洋

 

僕の先生がよく話しておられたのが、

東洋は主に、精神的な文化でもって発展し、

西洋は主に、科学的な文化で発展してきたのだと。

近世、現代において、科学の力(武力)で西洋が東洋を圧倒したが、

これ以上、武力(核爆弾)では共に滅びるしかない、にっちもさっちも行かなくなった。

このままではチキンレース、ですね。

だから、これからは東洋の出番だと。(精神文化)

 

 

「北風と太陽」誰もが知っているイソップ物語です。

これまでは、力ずくで無理矢理成り立たせていた社会が、

それではもう成り立たないのだと、多くの人が声をあげ、

変わりつつあります。

 

〇〇ハラスメント、パワハラ、カスハラ、マタハラ、●●ハラ、□□ハラ、

ハラハラ、ドキドキ、ワクワク☆ ヽ( ´ー`)ノ

様々なハラスメントが存在し、行き過ぎ、やり過ぎの感は否めないですが、

多くの企業が、これら対策に力を入れてはいるものの、

これまでのやり方が通用しなくなり、

じゃあどうすればいいんだよ、となっているのが現状ではないでしょうか。

うちの会社でも、力で抑えつけるやり方を、僕がつついたものだから、

「最近はなんでもかんでもパワハラと言われる。(押さえつける以外のやり方で)

 俺の代わりにやれるものならやってみろ」

となかば上司に職務放棄されている状況です。

 

北風に代わるもの。

太陽ですね。

言うは易しでしょうか。

易しはわかっています。

であるならば、難しい、その職務につかないこと。

ただ賃金が上がるから、それだけの理由で昇進など望むべきではないのです。

太陽であることが難しいならば、

はたらく社会において太陽とは、どんな存在であればいいのか分からないのならば、

責任ある立場の昇進などしてはいけないのです。

そこを理解せず自分の利益だけの為に昇進なぞするから、

力で抑えつけるしかなくなる。

彼ら世代にとって、それに代わるものは、色と欲、ですね。

(色なんて使いたくない言葉ですが、文脈上、すみません)

だからより多くのお金を欲する。

それをバラまけば、力の代わりに、多くの人がついてくる。

言いなりになる。

困っているものがいれば、言いなりになるものを顎で使い、

自分はシンドイ思いをすることもなく、助けさせる。

一方では感謝されるが、

もう一方は、シンドイ思いをして、感謝もされず、

なんの見返りもなければ、不満がたまる。

その不満を抑える為に、さらなる金と色が必要となる。

女性を力ずくで従わせ、接待していたのは最近でも問題になりました。

 

はたらく社会における太陽とは。

ともに汗水たらしてはたらくこと。

メザシの土光と呼ばれた土光敏夫さん、パナソニックの松下幸之助さんがそうですね。

金で従わせる以外のやりかたは、「信頼」「尊敬」それしかありません。

信頼、尊敬されるには、人徳、体力も必要となってきます。

しんどいし、日々学ぶ必要がある。

昭和初期まででしょうか、学ぶための書斎が存在したのは。

今は、喰う寝る遊ぶを追い求めるのが主流。

 

現場の生の情報(データですね)を知る為に、自ら現場に赴く。

本当の生のデータを知る為には、下の者と同じ仕事をする必要がある。

上の立場である程、楽ではないです。

楽であってはならないのです。

だからこそ、誰もやりたがらない。

誰もやりたがらないからこその、高い賃金(職務手当)です。

それを理解していないから、人を顎で動かす必要が出てくる。

顎で動かすから、人に慕われない。

慕われないから、金をばらまく。

ばらまく為に金だけ欲する。

金の為に、色を力づくで集める。

その繰り返し。

 

いらねーよ、そんなループ ヽ( ´ー`)ノ

 

 

太陽は高エネルギーです。

高エネルギーでない者が太陽を偽る。

これがこれまでの腐った企業文化の正体じゃないでしょうか。

 

あ、

ちょっと個人的な愚痴になっちゃいましたね。。。

ごめんなさい。

 

ただ、このことは、世界においても同様です。

これまで力ずくで植民地支配してきた西洋社会が、

まるでチキンレースの如く、

このままでは崖から落ちちゃうけど、やったらやり返すの世界。

出した手を引っ込めるわけにはいかなくなっています。

 

あなたは、

上で述べました、はたらく社会における太陽、

これを日本に重ね合わせると、どうなると思いますか?

 

信頼される日本。尊敬される日本。

 

僕の考えは、

東洋西洋信仰科学のまつり合わせ。

最新の科学(武力ではない、矛を止める、止めさせる意での科学)と祈り心を融合させたその先に、

輝く日本の未来があるのだと信じています。

 

お酒とタバコ

 

嗜好品とされるこのふたつ、僕の中では、どちらも薬です。

医食同源と云いますが、そういった意味での薬です。

だから医療が言う程、禁忌するモノではないと僕は思っています。

 

は陽、タバコは陰。

 

お酒はいうなれば、東洋の薬

あなたの心の中にひそむ負のエネルギーを、

酔いに任せ、

ストレスを吐き出す行為に形作り、外へと発散します。(根治療法)

副作用:発散された負のエネルギーにより、周りのひとが迷惑を被りますが、

(上司への日頃の恨みつらみを、無礼講の名を借りて口走ってしまう。

 からみだす、等々)

あなたの反省により、逆に周りの人共々、平安へと導きます。

 

タバコはいうなれば、西洋の薬

主にイライラした時に服用。

タバコはその、あなたの心の中にひそむイライラ、負のエネルギーを内へと抑えこみます。

(対症療法)

副作用:よって、薬の作用により抑え込まれている、その間に、

イライラしない人格へと学んでいかなければ(根治療法)

抑え込めば抑え込む程に、イライラのエネルギーは溜まっていき、

(直接的に)周りに迷惑はかけないものの、心身へのダメージは溜まれば溜まる程に大きくなります。

それに気づき、

いきなり薬断ち(禁煙)をすると、それまで溜め込んでいた負のエネルギーが爆発。

それを暴飲暴食にて賄おうとするため、禁煙をすると太ってしまうなどの副作用があります。

20年服用した場合は、20年かけて負のエネルギー(イライラ)を出していく、

くらいの心づもりで、日々、祈り、はたらく(身体を動かす)ことで、

貯め込んだイライラは雲散霧消するでしょう。

 

口うるさく言うようで申し訳ないですが、

お酒やタバコが薬ならば、西洋の薬まで常用していては、

薬の取り過ぎだとは、思いませんか?

西洋の薬がやめられないなら、お酒やタバコ(東洋の薬)をやめるべきです。

お酒やたばこがやめられないなら、西洋の薬はやめましょう。

薬は本来、子供たち(幼き者)の為にあるもの。

厳しく聞こえたなら、ごめんなさい。

でも、僕らは大人として、幼き者たちの為に、強くあらねばなりません。

 

病と薬

 

まず前提として、のことを誰もが誤解しています。

病はいわば自然治癒力の別の名であって、同一人物です。

このことを口にすれば、病に苦しむ方々は怒るでしょう。

病を患う、俺の私の苦しみを、簡単に片づけられたこと、に対してです。

僕も、死んでしまおうと思うくらいに病に苦しんだことがあるので、

そのことはよくよく理解できます。

ただ、身体の治そうとする力が働かなければ、咳も出ません。

鼻水も出ません。熱も、下痢をすることもないでしょう。

懸命にウィルスを追い出そうとする姿が咳であり、鼻水、下痢です。

ウィルスと戦ってくれているからこその発熱です。

治そう治そうと身体が一生懸命はたらいてくれているというのに、

僕らは熱を抑えます。咳も出ない様に抑え込みます。

いまだ体力がじゅうぶんでなく、症状で苦しむ子供たちの為に、

愛情として一時的にで症状を抑える、であるならば理解もできます。

むしろそうするべきでしょう。

しかし、心身ともに強くあるべき大人が、

病に対して、そのような幼い対応でいいのでしょうか。

逃げる程、追いかけてくるのが犬です。

それが真理です。

一時的に逃げるのはいいでしょう。

でも逃げてばかりでは、逃げ続けていれば、人間というものが弱くなってしまいます。

人間は真実を知りません。

人は必ず誰もが死ぬということを。

あなたも私も、必ず死ぬのです。

それは明日かもしれない。

なのに、誰もがその真実を知ることを先延ばしにします。

だから病を患った状態のまま、人が死んでしまうと、誰もが死を病の所為にします。

病の所為で死が訪れたのではなく、

死を迎え入れる為に、病となったかもしれないのに、です。

恐れは人を盲目にする、その典型ですね。

 

僕はピロリ菌を内蔵にて飼育しています。

癌の原因とされ、誰もが除去する施術を受けたがるアイツです。

けれど、本当にピロリ菌が原因で癌になっているのかは、

科学的に証明はされていないようです。

癌になるそのときに、いつもそこにアイツがいる、というだけの理由です。

疑わしきは罰せず、これが大人の態度ではないでしょうか。

ピロリ菌が僕の中に存在し続けるのは、何か理由があるはずです。

いい理由なのか、悪い理由なのか、それはわかりません。

僕が不摂生をしているから、なのかもしれません。

だとすれば、僕が癌になったとしても、

それはピロリ菌のせいではなく、僕の不摂生ですね。

もしかしたら本当は良いことをしてるのかもしれない。

癌化する、その時に、何かいいことをする役目なのかもしれない。

だから、いつもその時そこに存在する。

それはわからない。

良いにしろ悪いにしろ、僕の身体がそれを許可しているわけです。

癒す力をもつこの身体。

許可していなければ、存在できるはずがない。

不摂生がしたいから僕の身体が許可しているのか、

良い存在だから許可しているのか。

はたまた死する準備として許可しているのか。

わかりっこない。

僕自身がそれを許可しているのだけは確か。

だとすれば全ての責任は僕にある。

この考え方をして癌になるならば、本望です。

きっと自然療法にて亡くなる無知の典型として、こういった思考は世間に揶揄されるのでしょうが。。。

(人は必ず亡くなるという真実を知ろうとしない非科学的態度の者たちによって、です

 非科学だからこそ、死を実際に目の前にすると慌てふためき、

 人を蹴落としてでも助かろうとする思考に陥ってしまうのです)

 

それに誰もが抱く長生きしたい、というその願いは、

究極の自己中だと僕は思っています。

(これもまた叩かれますネ)

長生きしたい、そう願っても、あなたの周りがそれを望んでいるかは、

真実は知りようがありません。

「僕に長生きして欲しい?」と身近なひとに尋ねたところで、

出された答えが本心かは、どうあがいても知りようがありません。

本当は保険金の為に亡くなって欲しい、なんて口がさけても言えないでしょうし、(*´ -`)

長生きして欲しい、と言われても、それが本心かは信じるしかないのではないでしょうか。

この思考は、他人は信用できない、ということが言いたい訳では決してなく、

人の心はわからないという真実、

と、

信頼できるかどうかではなく、信頼されるよう努める、

それが大人としての態度だということが言いたいのです。

 

また、

死すべき時に死なないことで、死ねないことで、

家族に無駄な医療費を使わせる、それは自己中ではないでしょうか。

であるならば、僕達にできることは、

不健康な生活をし、早く死んでしまおうとするのではなく、

無駄に医療を受け、長生きしたいと願うことでもなく、

身体を大切にし、精一杯生きることだと僕は思うのです。

 

税金の多くを占める(半分近く)という社会保障費。

医療費が保険にて、まかなわれるからといって、

病院の待合室を御老人の皆様にサロン代わりに利用されては、その負担は全て子供たちにいくわけです。

抗生物質を使えばつかうほど、耐性をもった強い細菌が現れます。

でも病を恐れる者は誰もが抗生物質を欲するでしょう。

その度に抗生物質が効きにくくなっています。

こうして、大人が抱く恐れが、子供たちを苦しめている事を僕らはよくよく知らねばなりません。

臓器ビジネスもそう。僕らの病を恐れる気持ちさえなければ、

成り立たないビジネスです。

言い換えれば、僕らひとりひとりが、

子供や弱者の頭を踏みつけにし、誰かの臓器を奪い取ることで、

自分さえ助かるのなら、人が死のうが病気で苦しもうが構わないと、

病の恐れから、逃れようとしてるに過ぎないのです。

 

言い過ぎでしょうか。

僕はそうは思わない。

 

もういい加減、大のおとなが、死と向き合うことから逃げるのを止めるべきなのです。

誰もが必ず死ぬというのに、

死と向き合わない、それこそ非科学的態度でしょう。

延命治療が幸せをもたらすとする医学的データ、

それこそが陰謀論の最たるもの、ではないでしょうか。

人の生き死にを、

生老病死の苦しみ、不安を煽り、ビジネスにする者達を僕は許せない。

 

日本が平均寿命世界一、ということが本当に喜ぶべきことなのか。

寝たきりにされ、医療器具の管につながれ、

製薬会社の金の成る木として、日本人だけが特別に、

「飼育」(ジャップとして)されている可能性(別のデータの読み取り方)だってあるわけです。

 

日本は寝たきりの方の数、人口あたりの割合、共に世界一です。

 

マダニに噛まれ、年配者が亡くなったという情報も、

だから、マダニは怖いと情報を受け止めるのか、

この方は、すごく免疫が落ちていた、と情報を受け止めるか、によって、

ビジネス的な不安を煽る情報と、真実に近い庶民感情を煽らない情報と、が存在しますね。

 

心療内科にて言い渡される病名。

ADHD、うつ病。

過去の偉人はADHDであった可能性のある人たちがたくさん存在します。

それは皆さんも耳にされたことはあるでしょう。

であるならば、どうしてそれが「病気」なのでしょう。

どうして「個性」という呼び名であってはいけないのですか?

愛する家族が亡くなったり、ショックなことがあれば誰だって何日も落ち込みます。

それをもって病気(鬱病)とするのは、おかしいのではないでしょうか。

うつと診断されれば処方されるパキシル。

池田小事件を起こした犯人は、このパキシルについて、

このパキシルを服用した後は強い怒りがわき、

衝動的に行動してしまうことが多かったと、

これさえ服用していなければ、事件は起こさなかっただろうと自身の口で証言しています。

津久井やまゆり園の事件の犯人も、

秋葉原通り魔事件の犯人も、パキシルを服用していました。

つい最近ファストフード店にて起こった、犯人の事件を起こすまでの行動をみていくと、

家族と離れ暮らすようになったあと、深夜に騒音をたてるようになったり、

おかしなライトアップをするようになったりしてることを鑑みれば、

殺害した子供と同じ年齢くらいの子が犯人にもいて、

離婚で子供と会えなくなったショック状態を、世の中の非科学的情報から自身を病気と思い込み、

薬を服用、おかしくなっていった可能性が大きいのではないでしょうか。

それをすべてのメディアが報じない。

口にされていたのは、僕が知るところでは、著名な精神科医の和田秀樹さんくらいです。

 

たしかに治療の必要な深刻な症状の方もいらっしゃるかもしれません。頭を打撲したり、体内に取り入れた物質による脳の損傷などによってです。その人たちは治療を受ける必要があると僕も思います。けれど、それはほんの一部であって、過去に比べ様々な病に罹患される方の数が、何倍、何十倍と増えて行ってる現状は明らかにおかしい。体調不良で休養をとる著名人がほんの数年前まで、こんなにも多かったでしょうか。

 

無駄な医療で被害を被るのは、いつも弱者です。

僕たちが病を恐れる、その感情がこれら事件の被害者を生んだ、

といっても言い過ぎではないと僕は思っています。

 

その心持を神に愛されたジョンレノンも、早くに神の元に帰られましたネ

 

貧困者ビジネスにて、反社組織が使う手口に、

家出した少女を集めてきて、小部屋に善意を装い住まわせ、

うつの薬を飲ませる。

うつの薬を飲ませると、それまで元気だった少女が、たちまちうつの症状を発症。

逃げる気力を失うのだとか。合わせ、生活保護を受給させ、

管理費名目でそのほとんどを巻き上げる。少女たちが処方される薬も、闇市場にて高額転売。

そんなビジネスも存在するといいます。

元気だった人間が、服用すると病気になる。それが薬だと言えますか?

善意を装い、病気にしておいて、

その病気を治してあげましょうと、

これまた善意を装い近づいてくる。

それはまるで、カルト宗教にて、教祖の血を飲めば、最高の叡智を授かることができるのだと、

信者が信じて疑わないのと全く同じ構図がそこにあります。

騙されているよ、と訴えても、信者は信じて疑わない。

むしろ私達の教祖を侮辱するのかと、感情的に怒り出すでしょう。

共依存の関係。誰もそこに入り込めない。

誰もが、なんであんなのにひっかかるのだろう?

と不思議に思いながら、

誰もが、自身もその構図に組み込まれていることに気づけない。

女性、子供、か弱き者が被害者になっているというのに、

それを口にすればたちまち陰謀論者と、叩かれるのだから、

沈黙せざるをえません。

 

過去に行われていた非科学的医療、ECTも同様です。

頭部に電気ショックを与えて人工的にけいれん発作を誘発する、

うつ病や統合失調症などの治療行為のことです。

アインシュタイン博士の次男エドゥアルトは統合失調症を患っていたそうで、兄のすすめもあり、

ECTの治療を行っていますが、このECTによる副作用で認知機能に深刻な障害を残したとされています。

あの文豪、アーネスト・ヘミングウェイも晩年にうつ病などの治療のため、このECTを受け、

この治療により「記憶が消されてしまう」と強く苦しんだと伝えられています。

ヘミングウェイはこの治療による副作用の、記憶障害や言語障害に苦しみ、

創作活動ができなくなったことが自殺の一因になったと考えられているようです。

誰もが飛びつく最新医療が、時の流れにより非科学になる典型ですね。

  

夢は醒めた後に、夢であると気づける。

誰もが恐怖から逃れようとモガクほどに、泥沼にはまり込む、

その泥沼にはまらない為には、バイアスがかからない状態である必要があります。

上でも述べました通り、

(0,0)から外れる根本原因は死への恐怖です。

である以上、僕も含め、バイアスのかかってない人間など、ほぼ皆無でしょう。

だとしたら、バイアスのかかりやすい生老病死を扱う医療情報というものには、

一番、慎重であるべき、と僕は考えます。

 

医療行為だけでなく薬も同じ。

薬(市販されているもの)は医療ではない。ビジネスです。

ビジネスだと理解して使用するならば、使い方を間違うことはないでしょう。

相手が善意で行っていると思い込んでいれば、こちらに選択の自由はなく、(セカンドオピニオン)

何もかも無条件で受け入れてしまうことになりかねません。

文明の利器、パソコンもビジネスにて市販されるものを購入しますよね。

店員さんの言うままに購入することはしない筈。

自分の用途、お財布と相談しながら選択するはず。

それと同じです。

 

妻が貸してくれた本です

 

著名なテニスプレイヤーのジョコビッチ選手。

彼がワクチンを打たないと公にしたとき、多くの人が彼を批判し叩きました。

 

食物は情報だ

この一文を覚えたら、あなたの食べ方は根本的に変わる。
食物は体にどう機能するかを伝える情報なのだ。

もし、私の食事について『本当の秘密』を知りたいのであれば、
何を食べているかを聞いてもダメだ。どのように食べているかを聞いてほしい。

私はつねづね口に何を入れるのかは本題の半分でしかないと信じている。
残りの半分は、どのように食べ物が肉体とコミュニケーションをとっているか、そして体がどのように食べ物に対して反応するかなのだ。
私は、肉体と食物には少しでも早く効率的に、
なんの副作用もないままで一体になってもらいたい、と願っている。

私の祖国では、このような言い回しがある。
「エネルギーは口からやってくる」

あなたが摂取するすべての食べ物は、何らかの形で肉体に変化をもたらす。
体に語りかけ、影響をもたらし、指示を出す。
このコミュニケーションに意識が向くようになり、
求める結果に近づけるよう学んでいくと、
肉体と心理に最高の結果をもたらすことができる。

三五館 『ジョコビッチの生まれ変わる食事』

 

ジョコビッチ選手の言われる、食物は情報だ、という意味。

これは食べ物(薬も含め)が身体に対する指示書みたいなものだと、言いたいのですね。

不調はすべて、口に入れるものからやってくる。

「健康的な食事に気をつけても病気になって死ぬ人もいるじゃないか」

とたちまち批判されそうですが、

それは「誰もが死ぬ」、「誰もみな寿命がぴったり同じではない」、

といった当たり前の幼い子供でも理解できる科学的データを、

死を前にすると、忘れ果ててしまうからです。

  

そもそも、おおよそ薬のベースは石油から出来ている。

石油を飲むことはしないのに、何だか違和感はないでしょうか。

もちろん石油から作られている薬に効果がある、そのことは紛れもない科学的事実でしょうが、

製薬会社に誰も異を唱えない、この現状の理由が、

なんとなく石油という言葉の奥に見えてはこないでしょうか。

 

情弱ども、庶民ども、といった口汚い態度をとる著名人に限って、

不思議と庶民のための医療ビジネスに関わっている、

その理由がなんとなく透けて理解できるのではないでしょうか。

 

医療に関する情報で、僕が信頼する情報源は吉野敏明さんです。科学的に正しいとか、皆が信頼すべき、と断言してる訳ではなく、「僕が信頼する方」としていることに、ご留意ください

 

は厳しく、は優しい。

はその者の心、目覚めさせる為ならば、片腕をも切り落とす、峻厳なる愛であり、

命(みこと)は、生老病死の苦悩を、それを超える辛さをよくよく理解できる、

庶民感情を有する愛情、慈愛の存在。

は愛。

は慈愛です。

 

であるならば、そのことを理解できるからこそ、

僕だって、薬を批判したくはない。してはならないと思います。

でも、現状、薬を利用し、ビジネスを行う者たち、

病気を作り出しておきながら、人を弱くしておきながら、

お為ごかしに、医療行為をし、

儲けようとする者たちのいることを思えば、

批判せざるをえません。

その共依存の関係に入り込んでいけば、両方から叩かれると分かっていてもです。

 

死の恐怖から逃げ回ることで、

国の行く末を、未来の子供たちの頭を、

踏みつけにしている、そのことに我々は気づくべきではないでしょうか。

 

何度でも言います。

病は愛です。

僕らに目覚めるきっかけを与えます。

 

病という責任(不摂生など)を己自らとってこその成長、強さです。

世界で一番に大人の態度を有していた我が国、日本。

その我々が、か弱きものを踏みつけにして、我先に助かろうとするなど、

あってはならない。

どうせいつかは死ぬのです。

であるならば、病など恐れず、か弱きものの為、命をなげうつ、

その贐(はなむけ)とするならば、病など恐るるに足らず、

ではないでしょうか。

 

しつこいくらいに言います。

病は愛です。

覚悟を決めよ。

我ら日本人。

 

【番外編】聖徳太子とアインシュタイン

 

あくまでも番外編で、

この項のまつり合わせが目的ではなく、お二人の残された想い(言葉)について、

お話したいだけですので、どちらが陽、どちらが陰と分けないでおこうかな、

と思いましたが、敢えて分類するならば、

聖徳太子は東洋の人ですが、陰。

アインシュタイン博士は西洋の方ですが、陽。

にします。 (^-^)

 

聖徳太子の残された「十七条憲法」。

これは陰。

「十七条の憲法」は、当時の官僚や豪族に対し、協調・公正・信頼・礼儀・仏教尊重など、

組織や社会を円滑に運営するための道徳的な規範を示したものですが、

僕は、この社会ではたらく為に、

一番大事な人間関係をよくするための必須マニュアルだと思っています。

 

以下、

十七条憲法について簡単にですが、AIの力も借りつつ、解説してみたく思います。

 

第一条:和を以て貴しと為す

 

【原文】
一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。

【書き下し文】
和を以て貴しと為し、忤(さから)ふること無きを宗とせよ。人皆党有り、亦達(さと)れる者少し。是を以て、或は君父に順(したが)はず、乍ち隣里に違ふ。然れども、上和ぎ下睦(むつ)びて、論ずるに諧(かな)ふときは、事理自ら通ず。何事か成らざらん。

【訳】
和を大切にし、むやみに争わないことを基本としなさい。人は誰しも馴れ合いがちで、物事の道理をわきまえた人は少ない。そのため、主君や父に従わなかったり、身近の人々と争ったりする。しかし、上の者も下の者も仲良く話し合えば、物事は自然と筋道が通り、成し遂げられないことはない。

 

何が正しい、誰が間違ってるなどと、わかりっこないのだから、

無用な対立や争いを避け、和(調和・協調)を大切にし、

互いに協力して物事を進めるべきだと説かれています。

そうすれば、

「何事か成らざらん」

実現できないことは何もない、と太子は断言されています。

 

第二条:三宝(仏・法・僧)を敬え

 

【原文】
二曰。篤敬三寳。三寳者仏法僧也。則四生之終帰。萬国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三寳。何以直枉。

【書き下し文】
篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗なり。何の世、何の人か、この法(みのり)を貴ばざらん。人、尤(はなは)だ悪しきは鮮(すくな)し。能(よ)く教うれば従う。その三宝に帰せずば、何を以て枉(まがれる)を直さん。

【訳】
三宝(仏、法、僧)を深く敬いなさい。三宝はすべての生き物が最終的に帰るところであり、世界の根本となる教えである。どの時代、どこの国の人であっても、この教えの貴さに変わりはない。人は過ちを犯しやすいが、三宝の教えによって正しく導くことが出来る。不正を正すには仏の教えを拠り所としなさい。

 

仏教(仏・法・僧)を深く敬い、社会の規範や精神的な支えとすることを勧めています。

太子は、仏教を国の精神的な柱と位置づけました。

細かいルール(法律)を大事にするよりも、人徳でもって社会を治めようとされたのですね。

「何れの世・何れの人かこの法(みのり)を貴ばざらん」

世界のどの国においても、過去から未来へ、どの時代においても、

変わらない、共通する真理(法・情報)を大切にせよ、と。

それは決して「科学的な正しさ」ではありません。科学は移ろいゆくもの。モノサシとして何の役にも立たぬものです。

 

本来、神道を重んじる家系の太子が何故、仏教を保護されたか。これについては、人間の内にある神を説く神道だけでなく、仏教が説く、我々を外から守護する守護霊の存在を太子が知っておられたからだと、先生は語っておられました。陰と陽のまつり合わせがこれにて、成り立つようになったわけですね

 

第三条:詔(天皇の命令)を謹んで受けよ

 

【原文】
三曰。承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。四時順行。万氣得通。地欲覆天。則致壊耳。是以君言臣承。上行下靡。故承詔必慎。不謹自敗。

【書き下し文】
詔(みことのり)を承りては必ず謹め。君は則ち天なり、臣は則ち地なり。天は覆ひ、地は載す。四時順に行はれて、万気通ず。地、天を覆はんと欲せば、則ち壊(やぶるる)を致すのみ。是を以て、君の言(みこと)を臣承け、上行へば下靡(なび)く。故に詔を承りては必ず慎め。謹まざれば自ら敗る。

【訳】
天皇の詔(みことのり)は必ず慎んで受けなさい。君主は天のような存在で、臣下は地のようなもの。天が万物を覆い、地が支えてこそ、四季は規則正しく移りゆき、万物を活動させることができる。もし地が天を覆おうとするなら、この道理は壊れてしまう。君主の言葉に臣下は必ず承服し、上の者が行えば下の者はそれに従うこと。詔をいい加減に受けてはいけない。そうでなければ道理は自然と破れるだろう。

 

天皇の命令は慎重に受け止め、忠実に従うべきだとしています。天皇中心の国家運営を強調しているのです。

柱、中心が大事、ということですね。

「地、天を覆はんと欲せば、則ち壊を致すのみ」

政における中心者に関することだけでなく、

人が人智でもって、

大自然の理に叶わぬことをすれば、それは滅びの道です。

トンデモ科学、疑似科学などと、批判するのは容易いですが、

時代を超えて、変わらぬ科学とはなんであるのか、

欲望、感情に踊らされず、バイアスのかかっていない、

曇りなき眼にて見定める必要があります。

 

第四条:礼を本とせよ

 

【原文】
四曰。群卿百寮。以礼為本。其治民之本。要在乎礼。上不礼而下非齊。下無礼以必有罪。是以群臣有礼。位次不乱。百姓有礼。国家自治。

【書き下し文】
群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼を以て本と為せ。其の民を治むるの本、要(かならず)礼に在り。上礼あらざれば下斉(ととの)わず。下、礼無くば必ず罪有り。是を以て、群臣礼有れば位次(いじ)乱れず。百姓(ひゃくしょう)礼有れば国家自ら治まる。

【訳】
役人たちは礼儀を基本としなさい。国を治める根本は礼にある。上の者が礼を欠けば下も正しくならず、下の者が礼を欠けば、必ず罪を犯す者が出てくる。役人同士が礼を守れば秩序が保たれ、民も礼を守れば国は自然と治まるものだ。

 

役人や貴族は礼儀を重んじ、秩序や上下関係を守ることが、社会や組織の安定につながると説いています。

勘違いしてはならないのは、

下の者だけが、上の者に礼を尽くせ、という意味ではないことです。

「上礼あらざれば下斉わず。下、礼無くば必ず罪有り」

太子は、上の者にも礼が必要だと説かれています。

 

第五条:私心を捨て、公正を守れ

 

【原文】
五曰。絶餮棄欲。明辯訴訟。其百姓之訴。一日千事。一日尚尓。况乎累歳須治訟者。得利為常。見賄聴讞。便有財之訟如石投水。乏者之訴似水投石。是以貧民則不知所由。臣道亦於焉闕。

【書き下し文】
餐(むさぼり)を絶ち欲を棄てて、明らかに訴訟を弁(さだ)めよ。其れ百姓の訟(うったえ)一日に千事あり。一日すら尚尓(しか)り、況や歳を累(かさ)ぬるをや。頃(このごろ)訟を治むる者、利を得るを常となし、賄(まいない)を見て讞(うったえ)を聴く。便(すなわ)ち財あるものの訟は、石を水に投ぐるが如く、乏しき者の訴えは、水を石に投ぐるに似たり。是を以て貧しき民は、即ち由るところを知らず。臣の道、またここに闕(か)く。

【訳】
飲食を貪ることを止め、私心を捨て、公平に裁きなさい。百姓の訴えは一日に千件にも及ぶ。一日でもそうなのだから、年がたてばなおさらのこと。この頃、訴訟を扱う者は私利を得るのを当然のように思い、賄賂を受けてからその申し立てを聞いているようだ。財産のある者の訴えは、石を水に投げ込むように必ず聞き届けられるが、貧乏人の訴えは水を石に投げかけるように、手ごたえもなくはねつけられてしまう。このようであっては貧乏な民衆は頼りにするものが無い。臣下としての道理も無くなってしまう。

 

私利私欲を捨て、職務を公正に遂行することを求めています。賄賂や不正を戒めているのです。

「頃、訟を治むる者、利を得るを常となし、賄を見て讞を聴く。便ち財あるものの訟は、石を水に投ぐるが如く、乏しき者の訴えは、水を石に投ぐるに似たり」

大金を賄賂としてくれる金持ちには融通をきかせる、という、

今も昔も人の心に、大して変わりはないのですね。。。

 

第六条:悪を罰し善を勧めよ

 

【原文】
六曰。懲悪勧善。古之良典。是以无匿人善。見悪必匡。其諂詐者。則為覆国家之利器。為絶人民之鋒釼。亦侫媚者対上則好説下過。逢下則誹謗上失。其如此人皆无忠於君。无仁於民。是大乱之本也。

【書き下し文】
悪を懲(こら)し善を勧(すす)むるは、古の良典なり。是を以て、人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。其れ諂(へつら)い詐(いつわ)る者は、則ち国家を覆す利器たり、人民を絶つ鋒剣たり。また侫(おもね)り媚ぶる者は、上に対しては則ち好みて下の過ちを説き、下に逢いては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。其れ此くの如き人は、皆君に忠なく、民に仁なし。是れ大乱の本なり。

【訳】
悪しきを懲らし善きを勧めるということは、古くからのよるべき教えである。それゆえ、人の善行は隠すことなく知らせ、悪行は必ず改めさせよ。人に阿り、人を欺く者は国家を覆す鋭利な道具ともなり、人民を滅ぼす鋭い剣ともなる者だ。また、媚びへつらう者は、上の者には好んで下の者の過失を告げ口し、下の者に対しては上の者を非難する。このような人々は、みな君に対して忠義の心がなく、民に対しては慈しみの心がない。これは大きな乱れの元となることだ。

 

勧善懲悪。

悪事は厳しく罰し、善行を奨励することで、社会の秩序と道徳を守るべきだとしています。

「人の善を匿すことなく、悪を見ては必ず匡せ」

これは耳が痛いです。僕は上に対しては厳しいですが、

下の者には甘い。(特に子供)人間だもの、しょうがないじゃん、みたいに思ってます。

太子は「必ず糺せ」と言い切っておられますね。

「また侫り媚ぶる者は、上に対しては則ち好みて下の過ちを説き、下に逢いては則ち上の失を誹謗る。其れ此くの如き人は、皆君に忠なく、民に仁なし。是れ大乱の本なり」

糺さねば、大乱の元となると。

しかし、まぁ、人の心というものは、今も昔も大して変わらないものだなぁ、

って、ため息が出るくらい、そう思いませんか? ヽ( ´ー`)ノ

 

第七条:能力に応じて人を用いよ

 

【原文】
七曰。人各有任掌。宜不濫。其賢哲任官。頌音則起。 者有官。禍乱則繁。世少生知。尅念作聖。事無大少。得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此国家永久。社稷勿危。故古聖王。為官以求人。為人不求官。

【書き下し文】
七に曰く、人には各(おのおの)任あり。掌(つかさど)ること濫(みだ)れざるべし。其れ賢哲、官に任ずれば、頌音(ほむるこえ)則ち起こり、姧しき者、官を有(たも)つときは、禍い乱れすなわち繁し。世に生まれながら知るもの少なし、尅(よ)く念(おも)うて聖と作(な)る。事大少となく、人を得れば必ず治まり、時急緩(きゅうかん)となく、賢に遇えば自ずから寛(ゆるやか)なり。此れに因って国家永久にして、社禝(しゃしょく)危うきことなし。故に古の聖王は、官のために人を求め、人のために官を求めず。

【訳】
人にはそれぞれの任務がある。おのおの職掌を守り、権限を濫用しないようにせよ。賢く才知が有る人が官にあれば、政を讃える声がたちまちに起こるが、邪な心をもつ者が官にあれば、政の乱れがたちどころに頻発する。世の中には生まれながら道理をわきまえている人は少ない。常に常に祈ることで聖人となるのだ。物事は大事であろうと小事であろうと、適任者を得てこそ必ずなしとげられる。時の流れが速かろうと遅かろうと、賢者にめぐり合うと自然と穏やかになる。そうすることで、国家は常しえにつづき、君主の地位も安泰となるのだ。だから古の聖王は、官のために人を集めたのであり、人のために官を設けるようなことはしなかった。

 

適材適所を重視し、その人の能力や適性に合った仕事を任せることが大切だと説いています。

「尅く念うて聖と作る。事大少となく、人を得れば必ず治まり」

中心を大事にすること(バイアスのかからぬ心)で仁徳者となり、

その者を起用することで、必ず治まると。

間違えてならないのは、

能力も大事だが、それよりも太子が重んじているのは仁徳、

ということです。

 

「官のために人を求め、人のために官を求めず」

ゆえに、昔から聖王は、官職のために人を求めたのであり、

人のために官職を設けたりはしなかった、の意。

天下り、ダメ、絶対。 ヽ( ´ー`)ノ

 

第八条:朝早く出勤し、遅くまで勤めよ

 

【原文】
八曰。群卿百寮。早朝晏退。公事靡盬。終日難盡。是以遅朝。不逮于急。早退必事不盡。

【書き下し文】
八に曰く、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、早く朝(まい)り晏(おそ)く退(さが)れよ。公事は盬(いとま)なし、終日にても尽くしがたし。是を以て、遅く朝(まい)れば急に逮(およ)ばず、早く退(さが)れば必ず事尽きず。

【訳】
群卿や百寮は、朝方は早く出仕し、夕方は遅く退出するようにせよ。公務はゆるがせに出来ないものであり、一日かかっても全てを終えることは難しい。それゆえ、遅く出仕したのでは緊急の用事に間に合わないし、早く退出したのでは仕事をやり残してしまう。

 

役人は公務に励み、怠けずに職務を全うするべきだとしています。

現代人の思考とは相容れない考え方ですね。

僕の先生も、公に尽くすのに、休みなど必要ない、とする考え方でした。

労働、と考えると、休みが欲しくなりますが、

はたらく、といった意味で、人の為にすることであれば、自由に自分の活動にあてはめて良い、

と僕は考えます。

大事なのは、休みうんぬんということより、

一日一日、「全力を尽くせ」と太子は語られている、ということです。

 

第九条:信義を重んじよ

 

【原文】
九曰。信是義本。毎事有信。其善悪成敗。要在于信。群臣共信。何事不成。群臣无信。万事悉敗。

【書き下し文】
九に曰く、信は是れ義の本なり。事ごとに信あれ。其れ善悪成敗は要(かなら)ず信にあり。群臣共に信あらば何事か成らざらん、群臣信なくば万事悉く敗れん。

【訳】
信は人の行うべき道の根本である。何事をなすにも誠実に行うこと。事の善し悪し、成否の要はこの信にある。群臣がみな誠実に事にあたるなら、どのようなことでも成し遂げることが出来るだろう。しかし誠実でなければ、すべてが失敗するだろう。

 

互いに信頼し合い、約束や義務を守ることが、公務や社会の基礎であると説いています。

誠実であること。何より己に対し誠実であること。

言い換えれば、己に対し、嘘をつかない。

過ちを認め、すぐに改める。

バイアスのかかった心でないか、偏ってはいないか、常に中心を求めること。

吉田松陰も云われた「至誠通天(しせいてんにつうず)」です。

僕も実感として、どんな悪も、至誠で動かなかったものはありませんでした。

「群臣、共に信あらば、何事か成らざらん」

みなが誠実であれば、どんなことでも成し遂げられないことはない、

と太子も言い切られています。

 

第十条:怒りを抑え、理性で対処せよ

 

【原文】
十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理詎能可定。相共賢愚。如鐶无端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。従衆同擧。

【書き下し文】
十に曰く、忿((心の中の)いかり)を絶ち、瞋((態度にあらわれる)いかり)を棄て、人の違うを怒らざれ。人皆心あり、心各執るところあり。彼是とすれば則ち我は非とし、我是とすれば則ち彼は非とす。我必ずしも聖に非ず、彼必ずしも愚に非ず、共に是れ凡夫のみ。是非の理、詎(なん)ぞ能く定べき。相共に賢愚なること、鐶(みみがね)の端なきが如し。是を以て、彼の人瞋(いか)ると雖も、還って我が失(あやまち)を恐れよ。我独り得たりと雖も、衆に従って同じく挙(おこな)え。

【訳】
心に憤りを抱いたり、それを態度に表したりすることを止め、人が自分と違ったことをしても、それを怒らないようにせよ。人の心は様々でお互いに譲れないものをもっている。相手が正しいと思うことを自分は間違いと思ったり、自分が正しいことだと思っても相手がそれを間違いだと思うことがあるものだ。自分が聖人で相手が愚かな人だと決まっているわけではない。自分も相手も共に凡夫なのだ。何が正しくて誰が間違ってるなどと、どうして決めることが出来よう。お互いに聖人でもあり、愚かな人でもあるのは、端のない鐶(金輪)のようなものだ。それゆえ、相手が怒ったとしても、むしろ自分が間違えているのではないかと省みなさい。自分ひとりが正しいと思っても、みなの意見を尊重し、その行うところに従うがよい。

 

感情的にならず、冷静に物事を判断し、対立を避けるよう求めています。

この条は、一条に次いで大切な条ではないでしょうか。

感情は必ずバイアスを生みます。

偏っているからこそ、感情が生まれるからです。

少しでも自分に、苦悩や感情が存在するならば、

必ず認知にバイアスがかかっていることを知るべき、太子はそうおっしゃっています。

これが、人は生きている以上、バイアスからは逃れられない、の根源的理由です。

 

「我独り得たりと雖も、衆に従って同じく挙え」

究極の自分原因論ですね。

皆が間違えていて、自分ひとりが正しいとわかっていても、それでも皆と同じように行動せよ、と。

皆が間違えたのは己の所為。皆の為に己ひとり責任をとる。

昭和天皇。イエス・キリスト。西郷隆盛の生き様の如く。

それが大人(リーダー)として、皆に見せるべき背中ではないでしょうか。

 

第十一条:功績を正当に評価せよ

 

【原文】
十一曰。明察功過。罰賞必當。日者賞不在功。罰不在罪。執事群卿。宜明賞罰。

【書き下し文】
十一に曰く、明らかに功過を察して、賞罰必ず当てよ。このごろ賞は功に於いてせず、罰は罪に於いてせず。事を執る群卿、宜しく賞罰を明らかにすべし。

【訳】
官人の功績や過失を明確に評価し、それにかなった賞罰を行うようにせよ。近ごろは、功績もないのに賞を与えたり、罪がないのに罰っしている。政務にたずさわる群卿は、賞罰を正しく明確に行うようにすべきである。

 

信賞必罰。

善行や功績は正しく評価し、悪事はきちんと罰することで、公平な社会を築くべきだとしています。

努力しているものが正当に評価されない、正直者がバカをみる社会は、

気力をそぎ、そのことが組織の衰退を招きますね。

 

第十二条:私的な利益を求めるな

 

【原文】
十二曰。国司国造。勿斂百姓。国非二君。民無兩主。率土兆民。以王為主。所任官司。皆是王臣。何敢與公。賦斂百姓。

【書き下し文】
十二に曰く、国司・国造・百姓より斂(おさ)めとることなかれ。国に二君なく、民に両主なし。率土(そっと)の兆民は、王を以て主となす。任ずるところの官司は皆是れ王臣なり。何ぞ敢て公と、百姓より賦斂(おさめと)らん。

【訳】
国司や国造は、百姓から税を、自分の為に貪り取りたててはならない。国にふたりの君はなく、民にふたりの主はない。この国のすべての民は、みな天皇を主としているのだ。国政を委ねられている官司の人々は、みな王の臣なのである。どうして公の事以外に、百姓から税を貪り取ってよいであろうか。

 

役人が職権を利用して私的な利益を得ることを禁じ、公務の清廉さを守るよう説いています。

 

第十三条:広い視野を持て

 

【原文】
十三曰。諸任官者。同知職掌。或病或使。有闕於事。然得知之日。和如曾識。其非以與聞。勿防公務。

【書き下し文】
十三に曰く、諸々の官に任ずる者は、同じく職掌を知れ。或いは病み、或いは使いして、事を闕(か)くことあらん。然れども、知ることを得る日には、和すること曽(かつ)て識れるが如くせよ。其れ与り聞くこと非(な)しというを以て、公務を妨ぐることなかれ。

【訳】
それぞれの官司に任じられた者は、官司の職務内容を熟知しなさい。誰かが病気や使役のために仕事から外れることもある。そういった時でも、いざ職務についたなら、以前から従事しているかのようにその職務に和していくようにせよ。そのような仕事を自分は関知しないといって、公務を妨げるようなことがあってはならない。

 

自分の担当だけでなく、他の仕事や全体の流れも理解し、協力し合うことが大切だとしています。

いわゆる報連相でしょうか。 (^-^)

 

第十四条:嫉妬や妬みを捨てよ

 

【原文】
十四曰。群臣百寮無有嫉妬。我既嫉人人亦嫉我。嫉妬之患不知其極。所以智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以五百之後。乃今遇賢。千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治国。

【書き下し文】
十四に曰く、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、嫉妬あることなかれ。我すでに人を嫉(そね)めば、人も亦我を嫉む。嫉妬の患、其の極みを知らず。所以に智、己に勝る時は則ち悦ばず、才、己に勝る時は則ち悦ばず、才、己に優るる時は則ち嫉み妬(ねた)む。是を以て、五百歳の後、乃今(いまし)、賢に遇うとも千載にして一聖を待つこと難し。其れ賢聖を得ずんば何を以てか国を治めん。

【訳】
群臣や百寮は人を嫉妬することがあってはならない。自分が人をうらやめば、人もまた自分をうらやむ。そのような嫉妬の憂いは際限がない。それゆえ、知識が自分より勝っている人のことを喜ばず、才能が自分より優れていることをねたむ。そんなことでは五百年経って、ひとりの賢人に出会うことも、千年経って、ひとりの聖人が現れることも難しいだろう。賢人や聖人を得なくては、何によって国を治めたらよいであろうか。

 

役人同士で嫉妬や妬みを持たず、協力し合うことで組織の和を保つよう求めています。

「是をもって、五百とせにしていまし今賢しひとに遇う。千載にして一の聖を待つこと難し」

嫉妬の感情を持ったままでは、仁徳者を見抜くことができず、

賢者を組織に招き入れることも叶わない。

ここでもバイアスのかからない心にて人に対する大事さを説かれています。

 

第十五条:公(おおやけ)を優先せよ

 

【原文】
十五曰。背私向公。是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同。非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云。上下和諧。其亦是情歟。

【書き下し文】
十五に曰く、私に背きて公に向うは、是れ臣の道なり。凡そ人、私あれば必ず恨みあり。憾(うらみ)あれば必ず同ぜず、同ぜざれば則ち私を以て公を妨ぐ。憾起これば、則ち制に違(たが)い法を害(やぶ)る。故に初章に上下和諧(やわらぎかなえ)るというは、其れまたこの情(こころ)なるかな。

【訳】
私心を去って公の事を行うのが臣たる者の道である。人に私心があれば、必ず他人に恨みの気持ちを起こさせる。恨みの気持ちがあれば、みな和することが出来ない。和することが出来ないということは、私心をもって公務を妨げることと同じであり、恨みの気持ちが起これば、制度に違反し、法律を犯すことになる。ゆえに第一の章で、上下の人々が相和し協調するようにといったのも、この気持ちからなのだ。

 

私事よりも公の利益を優先し、国家や社会全体のために尽くすべきだとしています。

「故に初章に上下和諧るというは、其れまたこの情なるかな」

太子は云います。

それゆえ、最初の章で、上下和らぎ協力せよ、と言ったのである。

それもまた、この心を述べたのである。

私利私欲がバイアスを生むのだから、私利私欲は無くすように努めよ、と。

その為には、公に尽くすよう努めることで、私利私欲は消えてゆくのだ、と。

和はそれほどに大事なのですね。

 

第十六条:命令は慎重に出せ

 

【原文】
十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。従春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。

【書き下し文】
十六に曰く、民を使うに時を以てするは、古の良典なり。冬の月には間(いとま)あるゆえに、以て民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑の節なり、民を使うべからず。其れ農せずば何をか食(くら)い、桑せずば何をか服(き)ん。

【訳】
民を使役するのに時節を考えよとは、古からのよるべき教えである。冬の間に暇があれば民を使役せよ。春から夏にかけては農耕や養蚕の時節であるから、民を使役してはならない。農耕をしなかったら何を食べればよいのか。養蚕をしなかったら何を着ればよいのか。

 

人に仕事を命じるときは、その人の事情や状況をよく考え、無理な命令を避けるよう説いています。

言い換えれば、下の者を気遣うように。

人の上に立つと、どうしても、心も身体も反り返りがちなので、

背筋をまっすぐ、自分の足元に人を置くような心持にならぬ様、気をつけなさい。

傲慢であってはならないよ、と。

 

第十七条:大事は合議で決めよ

 

【原文】
十七曰。夫事不可独断。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事。若疑有失。故與衆相辨。辞則得理。

【書き下し文】
十七に曰く、夫(そ)れ事は独り断ずべからず、必ず衆とともに宜しく論ずべし。少事は是れ軽し、必ずしも衆とすべからず。唯大事を論ずるに逮(およ)びては、若し失(あやまち)あらんことを疑う。故に衆とともに相弁ずれば、辞(ことば)則ち理(ことわり)を得ん。

【訳】
物事は独断で行ってはならない。必ずみなと、よく話し合うようにせよ。些細なことは必ずしも、みなと論じる必要はないが、大事を決める際には、誤った判断をするかも知れない。みなと議論すれば、話し合いによって道理にかなった結論を導くことができる。

 

重要なことは一人で決めず、みんなで相談し合い、合意を得て決定することが大切だとしています。

「故に衆とともに相弁ずれば、辞則ち理を得ん」

皆と互いに是非を検証し合えば、その命題が理にかなうであろう、と。

 

これが最後の条となりますが、

太子は、徹頭徹尾、独断、独裁を禁じていましたね。

独断により決めたことが、たとえ神の目(真理)に叶っていたとしても、

それは必ず不満を呼び、その不満が組織の足を引っ張る、気力を失う元となるのです。

長い目でみれば、たとえ大きな遠回りに見えたとしても、

皆で話し合い決めたことが、一番の近道。

人類は「もつれ」ることで無限の可能性を有することが出来るように、

陰と陽、立場の違い、相互理解に努めることが何より大事。

また、

己が絶対に正しいとする道を、誰もが否定しても、

その正しい道に導いてやれなかったのは、

自分の力不足であり、真心が足りなかった所為とするのが、

太子の云われる、和なのだと僕は思います。

 

遥か昔のこと。

蘇我氏と聖徳太子は反目しあっていたのだ、いや、

協力しあっていた。

そもそも聖徳太子は存在しない説、聖徳太子は蘇我入鹿説まで。

大陸側から見た資料、日本側から見た資料、勝者側、敗者側、様々な資料、色々な説が存在し、当時のことは想像するしかないのですが、、

僕が想像するに、

聖徳太子の時代と今の日本の現状は非常に似通っていると思っています。

多くの渡来人(移民)が日本に移り住むなかで、

伝統的な文化とは違う文化も流入してきていた。

その最たるものが当時は仏教であった。

現代を生きる私達の感覚からすれば、仏教が流入してきたくらいで、そんなに揉めなくても、と思いますが、

神道が国家運営の根幹を成す、主流の信仰であった当時、

渡来人と共に仏教が流入し、どんどん広まっていく状況は、

仏教反対派としては、何としてでも押しとどめねばならなかったでしょう。

実際、仏教反対派の物部氏と仏教受け入れを推進する蘇我氏との間で流血騒ぎも起こっています。

もののふ、武士のアイデンティティの根源とも云われる物部氏(もののふ→もののべ)。

その義にあつい物部氏の反対を押し切ってまで、仏教を受け入れた聖徳太子の孤独は如何程であったか。

太子自身、仏教を受け入れることが、未来の日本国家にとって

必ず有益なものになると確信は得ていても、

その仏教を共に推し進めるものが邪な蘇我氏。

現に国家として正式に仏教を受け入れたその後、

蘇我氏の振る舞いは横暴となり、聖徳太子の一族は蘇我氏によって滅ぼされる訳です。

「それみたことか」

誰もが批判したであろう、そのなかで、

きっと、

理解者など皆無だったのでは、と思われるそのなかで、

太子の肩身の狭さは如何程だったでしょうか。

 

蘇我氏の血が流れている聖徳太子。天皇となる資格をも有していた太子。

なのに天皇とはならず、己に流れる蘇我氏の血を絶やす為、

聖徳太子も、太子一族も、みんな自ら望んで滅びていった節があります。

 

そのあとに遺されたのは、

聖徳太子の創られた、

幾度の地震にも揺るがない、奈良法隆寺五重塔(中心が大事とする象徴)。

庶民の為の施薬院、悲田院、敬田院といった施設。

敬田院の教育機関としての概念が、寺小屋へとつながり、

その後の庶民の識字率へとつながったことを鑑みれば、

太子が誇りと命を懸けて国の為に行動した、そのことが、

その後の日本文化の繁栄の根幹を成している、と断言しても過言ではないと僕は思うのです。

聖徳太子が存在しなかったなどという、くだらぬ説を受け入れてしまうことは、

日本の大事な中心を奪う行為であることを、僕らはよくよく知らねばなりません。

 

つづいて、

アインシュタイン博士が最愛の娘に送ったとされる、著名な手紙を紹介したく思います。

 

こちらは陽。

愛のエネルギーについて語られた博士よりの手紙です。

アインシュタイン博士の手によるものではなく、どこぞの作家が作ったものだ、

この手紙の宛名の主、娘リーゼルは1902年1月27日に生まれたとの記録は残っているが、1903年以降の記録が、

どの資料にも一切出てこない、

などと様々な説があり、贋作説が有力なようです。

が、

僕は本物説を支持しています。

ネット上に存在する、

「手紙がアインシュタイン自身によって書かれたものではないことは今ではわかっていますが」

との断定する言も、確かな証拠があってのことではありません。

養女の方が断言されている、などの情報をもって、さらに断言した、

いわば伝言ゲームによるものでしかないのです。

真実はアインシュタイン博士の逝かれた、今となっては知りようがありません。

また、

その説かれているものが、真実(真理)であればあるほど、人は隠そうとするものであるし、

この「筋の通り方」は、

決して、いち作家によるものなんかじゃなく、

思索に思索を重ねられた、試行錯誤されたアインシュタイン博士でなくては、

書けぬものであると僕は思っています。

 

何故、存在しないであろうリーゼルに宛てた手紙と題し、

この哲学的想いを遺されたか、

それは神のみぞ知る、ということでしょうか。

こちらもAIに翻訳を手伝ってもらいました。

 

私が相対性理論を提案したとき、ごく少数の者しか私を理解しなかったが、私が人類に伝えるために今明かそうとしているものも、世界中の誤解と偏見にぶつかるだろう。

必要に応じて何年でも何十年でも、私が下に説明することを、
社会が受け容れられるほど進歩するまで、お前にこの手紙を守ってもらいたい。

現段階では、科学がその正式な説明を発見していない、ある極めて強力な力がある。

それは他のすべてを含み、かつ支配する力であり、宇宙で作用しているどんな現象の背後にも存在し、しかも私たちによってまだ特定されていない。

この宇宙的な力は「愛」だ。

科学者が宇宙の統一理論を予期したとき、彼らはこの最も強力な見知らぬ力を忘れた。

愛は光だ。それは愛を与え、かつ受け取る者を啓発する。

愛は引力だ。なぜなら、ある人々が別の人々に惹きつけられるようにするからだ。

愛は力だ。なぜなら、それは私たちが持つ最善のものを増殖させ、
人類が盲目の身勝手さの中で絶滅するのを許さないからだ。

愛は展開し、開示する。

愛のために私たちは生き、また死ぬ。

愛は神であり、神は愛だ。

この力はあらゆるものを説明し、生命に意味を与える。

これこそが、私たちがあまりにも長く無視してきた変数だ。

それは恐らく、愛こそが人間が意志で駆動することを学んでいない、
宇宙の中の唯一のエネルギーであるため、私たちが愛を恐れているからだろう。

愛に視認性を与えるため、私は自分の最も有名な方程式で単純な代用品を作った。

「E=mc2」の代わりに、私たちは次のことを承認する。

世界を癒すエネルギーは、光速の2乗で増殖する愛によって獲得することができ、
愛には限界がないため、愛こそが存在する最大の力であるという結論に至った、と。

私たちを裏切る結果に終わった宇宙の他の諸力の利用と制御に人類が失敗した今、
私たちが他の種類のエネルギーで自分たちを養うのは急を要する。

もし私たちが自分たちの種の存続を望むなら、
もし私たちが生命の意味を発見するつもりなら、
もし私たちがこの世界とそこに居住するすべての知覚存在を救いたいのなら、
愛こそが唯一のその答えだ。

恐らく私たちにはまだ、
この惑星を荒廃させる憎しみと身勝手さと貪欲を完全に破壊できる強力な装置、
愛の爆弾を作る準備はできていない。

しかし、それぞれの個人は自分の中に小さな、
強力な愛の発電機を持っており、
そのエネルギーは解放されるのを待っている。

私たちがこの宇宙的エネルギーを与え、かつ受け取ることを学ぶとき、
愛しいリーゼル、
私たちは、愛がすべてに打ち勝ち、
愛には何もかもすべてを超越する能力があることを確信しているだろう。

なぜなら、愛こそが生命の神髄だからだ。

私は自分のハートの中にあるものを表現できなかったことを深く悔やんでおり、
それが私の全人生を静かに打ちのめしてきた。

恐らく謝罪するには遅すぎるが、時間は相対的なのだから、
私がリーゼル、あなたを愛しており、
あなたのお陰で私が究極の答えに到達したことを、
告げる必要があるのだ。

あなたの父親
アルベルト・アインシュタイン

 

もはや僕などが解説する必要などないですね。

アインシュタイン博士曰く、

愛は科学だと。

愛は究極のエネルギーであると。

ゆえに、愛で心をいっぱいにする、愛の言葉(響きとしては日本語がよい☆)で祈ることで、

あなたから愛のエネルギーが放たれるのです。

 

そうして、皆が愛に目覚めてゆくにつれ、

近い未来、

愛で動く機器が発明され、僕らは永遠と無限に、

どんどん近づいていくことになるのです。

その機器を操作できるのは、当然、愛にあふれた仁徳者であり、

だからこそ、

誰もが仁徳者を敬い、志す社会へとなってゆくのです。

 

以上、

アインシュタイン博士の祈り(愛のエネルギー)に関する情報と、

聖徳太子の我ら人類のはたらき(人や物、森羅万象の調和)に関する情報、

でした。

 

信頼すべき情報の取り方、発し方

 

まず前提として、

元データは必ず自分で目にし、自分自身で解釈する(情報化)ことです。

それが時間的に、空間的に不可能であるなら、

すべての情報の真偽、正誤は、

『わからない』が正解です。

わからないとしたうえで、情報を取り入れ、あなたの中で整理してゆく。

わからないのだから、対外的に批判は一切口にしない。

それが真の科学的態度です。

 

それがなかなか難しいのは、やはりまだまだ我々に幼さが残っている証拠でしょうか。

僕なんかも、まだまだ、俺が俺が、と俺を表現したい気持ちがあります。

真実は『わからない』ことなのに、相手を批判したい、マウントを取りたい。

きっと、

動物的な本能(欲望)なのでしょうネ。

以下、その本能を超えてゆく為に。

 

情報の取り方(祈り方)

 

あなたが大人になる

 

たとえば、

誰もがタネを見破ってしまうような簡単な手品でも、

幼い子供であれば驚いてくれますよね。

子供はその経験の幼さゆえ、なんでも真実と思い込んでしまいます。

それに嘘をつくのも下手です。

大人がすぐ見破れるような嘘をつき、こちらが黙っていると、

見破られていることに気づきません。

また、

大人であっても、人生経験に乏しかったり、

精神的に幼かったりすると、人に騙されやすいものです。

DVを受けていながら、加害者より離れることをすすめると、

「それでも時々優しいの★」

と、また元の鞘に収まってしまうのは、よくある話ですね。

詐欺にひっかかりそうな人に、

「それってたぶん詐欺ですよ」

と伝えると、急に怒り出す、のもあるあるです。

何が言いたいかというと、

情報の真偽、正誤を判断するのに一番大切なことは、

人格を磨くのが一番だということ。

幼いからこそ、真実が見抜けないのですね。

 

人格を磨けば磨くほどに、あらゆる嘘が見抜けるようになります。

対人的な嘘も、

相手のしぐさ、目線、声の質、言葉遣い、なんかでもわかるようになるのです。

対社会的な嘘も、真の科学的態度にて判断できるでしょう。

たとえ、その道の専門家でなくても、

徹頭徹尾、「筋が通っているか」どうかで、真偽は判断できるのです。

 

また、あるあるなのが、

たとえばAという企業の社員が粗相をすると、

その社員ひとりではなく、A社はなんて悪い会社だ。

二度とA社の製品を買うものか!

となりがちです。

他の社員は皆良いひとであっても、です。

逆に、A社自体が粗相すると、

そこに加わるもの皆が悪者のように扱われてしまうのも、あるあるでしょう。

 

首相が素晴らしきリーダシップにて、国を運営しても、

官僚、組閣メンバーが粗相をしたり、悪意を持っていれば、

どれだけ人格者でもすべてトップの責任となり、

悪者にされてしまうこともあるでしょう。

はたまたこの逆に、

首相が幼き人物で、国を破綻しかねないとしても、

必ずやまともな人格者は存在します。

けれどトップが悪、とされれば、メンバーもろとも、悪とされるのは世の常ですね。

 

中国が悪い、ロシアが悪い。

アメリカが悪い。

そう口にしたとき、中国の中にも善良な人格者は必ず存在します。

アメリカにも、ロシアにも。

中国が悪い、ロシアが悪い。

アメリカが悪い、そう口にした時に、

それは国家のことを指すのか、その国の国民全員のことを言いたいのか、

物事は「もつれ」に「もつれ」ていることを常に意識することが大事です。

 

あなたが人格を磨き、大人になることで、

本質を見抜く目が養われ、「もつれ」をほどきやすくなるように僕は感じています。

 

これまでに何度も述べていますように、

その為にはまず祈ること。

祈り心は自分を客観視できる最高のもの。

その目線を養っていくことで、

すべての責任は自分にあるという自分原因論を行使できるようになり、

松下幸之助さんが言われた如く、

他人を責めたい時であっても、自分に原因を求めることで人は成長し、

人格は磨かれてゆくのです。

 

そうやって真の大人となり、

この世のあらゆる詐欺、嘘を見抜き、暴いてゆくことは、

大人の責務であります。

 

信頼できる発信者を探す

  

信頼できる発信者を探すには、

まず、あなたが「この人は」と思う人を、

何年も、何年も追いかけることです。

 

発信者の人物評価をするうえで、

僕が一番大事にしているのは、

その人が中心を大事にしているか、です。

世界の中心、国の中心、己の中心。

次に、

口汚くないか、それが第二です。

口汚いひとは、たとえ今現在、嘘はついていなかったとしても、

「いざ」

という時に、必ず裏切ります。

「いざ」

が来なければ、何事も起こらないで済むでしょう。

たとえ口汚くても、皆の為に、

誰もが恐れ批判できない強き者に対し、(対してのみ

口汚く批判するのは、むしろ称賛されるべきだと僕は思っています。

誰もが批判している者に対し、追いかぶせるように、

口汚く批判するのは、子供のいじめとなんら変わりません。

そこをわきまえてる人を。

 

それから、

これからの信頼できる情報収集をする上で大事なのが、

緑を大切にするか、どうか、

これが第三です。

いくら時代が変わっても、天と地のまつり合わせが大事。

アニメ好きの方には申し訳ないですが、

アニメで描かれるような人工物だらけの未来都市ではなく、

むしろ今よりももっと緑(大自然)が増えてこその調和(祭政)です。

 

でもこの頃、何故だか不思議に緑が燃えていってます。

誰もが賛美するSDGsとやらも、

緑のエネルギー源である二酸化炭素削減はうたっても、不思議と緑そのものは増やそうとはしません。

 

SDGs

いうやつみんな

金儲け

なんて川柳がありましたが、(少し言葉が違ってるかもしれません、すみません)

至極、的を得てると思います。

 

中心を大切にする、口汚くない、緑を大切にする、

そのうえで、

この発信者は信頼できると感じたなら、

その人が信頼してると口にする発信者を辿っていくのが、

僕の手法です。

 

体力をつける

 

これはけっして筋トレを推奨する、といった意味ではありません。

身体を動かすことを厭わない、といった意味合いです。

 

誰しも経験があると思いますが、

気分が冴えない時は、判断力も鈍りますよね。

風邪で熱がある時であれば、物事の受け止め方も変わってくるはずです。

言い換えれば、バイアスがかかってしまいます。

だから、

健康管理がいかに大切かが理解できると思います。

健康管理に気をつけ、

情報を見誤ることのない様に注意しましょう。

 

ただし、病気がちな人は、正確な情報を判断することが難しいか、

というとそうでもありません。

病気(身体)がちであれば、それを上回るべく、人格(心)を磨く、

あるいは、

体力を徐々に増やしてゆく、

といった風に、必ず超えてゆく道が存在します

 

大切なのは、姿勢を正すことです。

要は病気がちであっても、姿勢を正す、その体力さえあれば大丈夫です。

姿勢の正しさは、

周りの人からの信頼を得るうえで、

信頼できる情報を得るうえで、

信頼される情報を発するうえでも、

大切な、

あなたという名の、データであって、情報です。

 

そりかえるでなく、

俯き加減、自信なさげに、身を縮こませるでもない。

姿勢正しく。

あなたの心の中、

上に人を置き、卑屈になるようではいけない。

下に人を置き、慢心するようでもいけない。

あなたがこれまで生きてきた年齢ぶんで作り上げたその骨格や筋肉が、

姿勢を正しても、(姿勢が悪いままについた筋肉が)元に戻そう戻そうとします。

あなたがこれまで溜め込んできた感情も、すぐに自信なさげに背を丸めよう丸めようとします。

自信もって行動しても、姿勢の悪さが邪魔をして。

姿勢を正して行動しても、それまでため込んだ心の癖が、またそれを邪魔します。

だから一朝一夕には行かないけれども、

姿勢をただす、その度に抱く、

大丈夫そう…

いや上手くいきそう…

大丈夫だ☆

その感覚を大事に大事にしていけば、

あなたの身体の中心、心の中心がどこにあるのか、

だんだんと認識できるようになり、その感覚さえ掴めれば、

良い悪いを繰り返しながら、螺旋の如く上昇し、

平穏で苦悩のない日々を送ることができるようになるのだと、

僕は感じています。←今ココ

 

以上、

身も心も、

調和を保ち、

姿勢を正すこと、

それがもう立派な仕事(はたらく)だよ、

ってくらい大事なことなので、常に意識してみてください。

 

情報の発し方(はたらき方)

 

データ(愛)をそのままデータ(愛)として活かす科学技術を未だ手にしていない僕らは、

その時がくるまで、

更なる発展の為にも、情報を発していかなければなりません。

たとえ、『わからない』でも、です。(矛盾してますが)

 

だからこそ、発信には注意が必要なのです。

誰かを傷つけかねない。

人の歩む道を誤って誘導しかねない。

だからこそ、発信はあなたの自己満足(承認欲求)の為ではなく、

他者の為にこそ行うべきです。であってこその「はたらく」だと僕は思います。

 

卵が先か鶏が先か、伝言ゲームとチェリーピッキングの原因が曖昧であるのと同様に、

「信頼される情報の発し方」は、

「信頼すべき情報のとり方」とさほど変わらないと思います。

 

まず第一にあなたが大人になる。人格を磨く、ですね。

大人になればなるほど、発すべき情報(データ)の取捨選択は間違うことは少なくなるでしょうし、

あなたの発する情報が、調和の響きを放ちます。

当然、心身が優れないときは、情報を誤りかねないので、発信は控えたほうが無難です。

それでも必要とあらば、優れていない時は、言葉選びを大事に大事にすることです。

 

発信は常に「ひとのため」を心掛ける

 

ルールは破る為にあります。 (*´ -`)

時代時代によって違っていたり、国などの場所によって変わるようなルールなど、

クソくらえ、なのです。

「郷に入っては郷に従え」

ですが、その郷のルールの為に、誰もが困っているならば、

皆の為にまずは異議を唱える。

それでも変わらず皆が困り続けていたなら、あなたが率先してルールを

破っちまえ、なのです。

そのうえで、最後は必ず、その破ったルールにのっとり責任をとる、

(和を乱した者の責任として、たとえ死刑であっても)

 

噛みつく相手を間違えてはいけません。

憎しみでもって噛みつくのではなく、愛でもって噛みつき、その相手をも糺してやる。

これが真の大人の態度です。

 

その心意気を神に愛されたゆえ、早いうちに天国へと旅立たれました

 

「信頼できる発信者を探す」の項で述べたのと同じで、

己の利害の為、弱者にのみ口汚く罵り、強者にはペコペコするようであっては、

信頼を得ることはできません。

 

 

おわりに(愛するキミたちに)

 

本当の頭の良さは学力ではありません。

 

アインシュタイン博士が云われたように、愛こそが最高のエネルギーであり、

聖徳太子が十七条憲法としてその想いを遺されたように、愛こそが最高の叡智です。

この頃のインテリとされる人達の振る舞いを見ていると、

決して学力が頭の良さと、イコールではないことが、

みなさんも分かってきたのではないでしょうか。

学力で得た地位、ため込んだ知識、技術でもって、

自分の利益のみを追いかけることが、

長い目でみれば、

己の首を絞めることに繋がっていることに気づけないのは、

目の前にある餌(欲望)に、すぐ飛びつく動物以下。

(汚い言葉を使って申し訳ないですが)

やはりバカなのですね。 ヽ( ´ー`)ノ

 

あなたはAIを超えた能力を有します。

それを現代科学もようやく、解き明かしつつあります。

 

 

何も、量子コンピューターという外部の機器に頼らずとも、

最新の医療に縋らなくても、

最高の医学も、(癒す力)

最高の科学も、(叡智)

学ぶ必要などない、取り入れる必要も、本来ないのです。

既にあなたのなかに存在しているのだから。

 

だから大丈夫。

キミのその不安も。

苦しみも悲しみも、

そう遠くない未来に、愛のエネルギーに変換されて、倍々になってあなたからあふれ出す日が来るのです。

 

確定できるのが過去であって、

未来は確定できないからこその、無限の可能性を秘めた未来です。

過去は客観視できても、未来は出来ないよね。

予言なんてものは、後になってからアレコレ言えるもので、

これからの未来に対する予言で、当たった試しなど、過去に存在したでしょうか。

これこそが科学的態度というもの。

だから予言など不安にならなくていい、信じなくて大丈夫☆

 

僕がこの記事で厳しいことを書いたのは、

すべて、自分のことは棚に上げ人を批判することしか能のない、腐りきった大人達に対してです。

キミたち子供は、本来(0,0)だったのに、

愛そのものだったというのに、

そこから中心を奪い、歪めてしまったのは僕ら大人の責任。

そういった大人は、そのうちに大人の中の大人が懲らしめてくれるから、

キミたちは好きなことをして自由に生きたらいい。

大人の中の大人であるあなたは、遥か古から今日まで、

過去を生きたすべての子供たち(幼いまま大きくなった大人達も含)に対し、

僕とともに(祈り、責任をとることで)謝ってくれませんか?

そうすることで、未来を自由に生きる子供たちが最高の科学と叡智を情報として運んできてくれる、

僕はそれを確信するからです。

 

情報とは。

それは無限の可能性を秘めた輝く未来☆子供達のことです。

(うまくまとまったでしょうか (*´ -`) )

 

いつも僕に生きる勇気をくれたメロディ